1828年の大統領選挙と死
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「レイチェル・ジャクソン」の記事における「1828年の大統領選挙と死」の解説
1828年の合衆国大統領選挙の選挙活動においては、大々的なネガティブ・キャンペーンが繰り広げられた。ジャクソンに対抗するジョン・クインシー・アダムズ大統領の支持派はレイチェル夫人の姦淫、重婚、離婚などを取り上げて激しく攻撃した。最も有名なのが「有罪判決を受けた姦婦とその不倫の愛人を、この自由なキリスト教国家の最高位に就けて良いのだろうか? 」と書かれたパンフレットである。1828年6月に養子のリンコヤが突然死したことと、こうした選挙活動中の誹謗中傷はレイチェルに強いストレスを与えた。この頃のレイチェルは左肩、腕、そして乳房に「耐え難いほどの痛み」を抱えていた。ハーミテージを訪れた知人ヘンリー・ワイズは「昔はぽっちゃりした血色の良い美人だったが、今は多血症の肥満体で・・・低い声で短く早口で話し、息づかいも荒い」と書き残したが、彼女の人柄については「レイチェルは素朴で優しく誠実で、飾り気が無く心から親切をする人である」と書き加えている。ジャクソンが大統領選挙に勝利した直後、レイチェルは「確かなことがあるの。ワシントンの宮殿に住むよりも、神の家の玄関番にでもなった方がずっと嬉しいわ」と周囲に漏らした。 1828年12月のある日、レイチェルはナッシュビルでホワイトハウスに持って行く衣装の買い物をした。買い物が終わり、親戚の店で一服して迎えの馬車を待っていたところ、ふと手にしたジャクソン支持派の人々がアダムズ支持派の中傷に対して弁護しているパンフレットの内容にショックを受けた。自分のことがいかに悪く言われてるかを知り、茫然となった。しばらくして到着した友人が部屋の隅にうずくまり、ヒステリックに泣き声を上げている彼女を助け起こした。彼女はこの日以来、すっかり落ち込んでしまい、叔母を元気付けようとしたエミリー・ドネルソンに向かって「忘れることなんて出来ないわ! 」と叫んだ。レイチェルはそれからしばらくして冠動脈血栓症と見られる重度の心臓発作を起こし、急激に体調を崩した。その後に少し持ち直したものの、1828年12月22日にジャクソンが少し休もうとベッドを離れたほんのわずかの間に亡くなった。61歳没。ジャクソンは夜も寝ず、朝まで妻の遺骸に取りすがって離れなかった。
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