1826年から1867年まで:「インド時代」
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「シンガポール法」の記事における「1826年から1867年まで:「インド時代」」の解説
制定法の6 Geo. IV c.85により、イギリス国王は、海峡植民地における司法運営について規定する特許状を発する権限を得た。東インド会社は国王に対し、かかる特許状を発して「プリンス・オブ・ウェールズ島、シンガポールおよびマラッカの植民地における、適正な司法運営ならびに居住者の人身、権利および財産ならびに公的収入の安全ならびに犯された死罪その他の犯罪の審理および処罰ならびに悪徳の抑圧のための裁判所および裁判官」を設置することを申請した。 申請は認められ、国王は第二司法憲章(Second Charter of Justice)を1826年11月27日に発した。第二司法憲章によってプリンス・オブ・ウェールズ島・シンガポール・マラッカ法院(Court of Judicature of Prince of Wales' Island, Singapore and Malacca)が設置され、これに「正義と権利に従って判決および有罪宣告を発し宣告する…完全な権能および権限」が授与された。この重要な規定は、後に、イングランド法を海峡植民地に導入したものであると、司法上解釈された。この規定に対する現在の理解は、1826年11月27日において効力を有する全てのイングランドの制定法ならびにイングランドのコモン・ローおよび衡平法が海峡植民地(シンガポールを含む。)に適用されることとなったが、ただし、現地の状況に不適合であり、かつ、不正または抑圧を生まないようにすべく変更することができないものは除く、というものである。 第二司法憲章の規定によれば、当該法院は海峡植民地知事(Governor)および開廷地たる植民地の駐在参事官(Resident Councillor)ならびにレコーダー(Recorder)と呼ばれるもう1人の裁判官によって統轄されるものとされた。最初のレコーダーであるサー・ジョン・トーマス・クラリッジ(Sir John Thomas Claridge)について問題が発生した。彼は、知事および駐在参事官らが一切の司法事務を行うことを拒否するとの不満を述べ、そこで自らもまた裁判所の一切の事務を行うことを拒否することによって応じた。彼はまた、「書記官、通訳などの、完全で効率的で立派な裁判所の制度」が欠けていることを嘆いた。クラリッジは、プリンス・オブ・ウェールズ島の根拠地からシンガポールおよびマラッカに出張するはずであったが、出張の費用と準備に関する争いのため、彼はこれを拒否した。こうして、1828年5月22日、ロバート・フラートン(Robert Fullerton)知事は、ケニス・マーチソン(Kenneth Murchison)駐在参事官とともにシンガポールで最初の巡回裁判(assizes)を彼ら自身で行わねばならなかった。クラリッジは結果的に1829年にイギリスに呼び戻された。 第二司法憲章は、プリンス・オブ・ウェールズ島の知事および参事官または(当然ながら)その他いかなる個人もしくは組織に対しても立法権を授与するものではない。制定法を制定する一般的権限はインド政庁( Supreme Government of India)およびイギリス議会が有していた。1813年東インド会社法(East India Company Act 1813)(1813年勅許法(Charter Act 1813)とも。)により、プリンス・オブ・ウェールズ島それ自体に、その課する租税に関して極めて限定的な規則制定権限が与えられ、海峡植民地に適用される9つの規則が発せられた。。しかしながら、1830年6月20日に、東インド会社は、プリンス・オブ・ウェールズ島の地位を管区(Presidency)から理事官管区(Residency)に格下げした。こうしてプリンス・オブ・ウェールズ島は海峡植民地に対する立法権を失い、その権限はベンガル総督(Governor General of Bengal)に引き継がれた。ベンガル総督からは、海峡植民地に適用される4つの規則が発せられた。 海峡植民地の格下げにより、知事および駐在参事官の職も廃止された。そのため、フラートン知事は、彼も駐在参事官ももはや第二司法憲章に基づいて司法を担う権限を有しないものと判断した。フラートンは、1830年の年内に、イングランドに旅立つ前に裁判所を閉鎖し司法制度を解散した。そのため、法的な混沌が生じた。現地に裁判所がないことによる混乱と不便によって商業活動が崩壊することになると思われたため、商業界は騒乱に包まれた。シンガポールにおいては、マーチソン理事官代理(Deputy Resident)は裁判所を召集しなければならないように感じた。しかしながら、ジェームズ・ロック(James Loch)登録官代行(Acting Registrar)はその裁判所は違法であるとの見解であり、これはすぐに閉鎖された。1831年9月には、海峡植民地の商人らはイギリス議会に陳情を行った。それまでにすでに、東インド会社は、フラートンは過ちを犯したものと判断していた。東インド会社は、知事および駐在参事官の肩書きを復活させ、これらの者が第二司法憲章に基づいて引き続き司法を担うことができるようにした。1832年6月9日、プリンス・オブ・ウェールズ島において法院が再開され、裁判所が閉鎖中であった2年間に蓄積した数多くの未処理事件を処理した。 1833年、1833年インド統治法(Government of India Act 1833)(1833年勅許法(Charter Act 1833)とも)がイギリス議会によって可決され、東インド会社の版図におけるよりよい統治が企図された。単独での立法権が、評議会におけるインド総督(Governor General of India in Council)に移転され、こうして「インド諸法」(Indian Acts)の時代と呼ばれる海峡植民地史の一時代が始まったのである。 法院は、1855年8月12日の第三司法憲章(Third Charter of Justice)によって再編された。海峡植民地には2人のレコーダーが置かれ、1人はプリンス・オブ・ウェールズ島を、もう1人はシンガポールおよびマラッカを担当した。 1858年、東インド会社は廃止され、同社によって管理されていた地域は、選任されたばかりのインド大臣(Secretary of State for India)を通じて行為する国王に移転された。これは1858年インド統治法によるものである。法体系の構造には変更はなく、インド総督が引き続き海峡植民地のために立法を行った。 不幸なことに、この時代に総督によって制定された多くの制定法は海峡植民地とは無関係なのものであり、いずれが適用があるものかを判断することは困難であった。この状況は、1889年制定法改訂布令(Statute Law Revision Ordinance 1889) (No. 8 of 1889) (Ind.)によって改められた。同条例により、この問題を調査する委員らが選任されるとともに、有効と認められるインド諸法の内容を記載した書物を公刊する権限が彼らに与えられたのである。そして、これに記載されていない制定法は直ちに適用されないこととなった。
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