1824年の選挙
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「ヘンリー・クレイ」の記事における「1824年の選挙」の解説
1824年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・クィンシー・アダムズ、アンドリュー・ジャクソン、およびウィリアム・クロウフォードと共に出馬したが、全員が民主共和党員だった。選挙人選挙で誰も過半数を取れなかった。1823年、クロウフォードが卒中を患った。1824年には回復したが、大統領選挙には不利になった。 最終判断はアメリカ合衆国下院に委ねられた。アメリカ合衆国憲法修正第12条に拠れば、選挙人選挙で3位までの者が下院での候補者になるとされた。すなわちジャクソン、アダムズおよびクロウフォードだった。クレイは除外されたが、下院議長であり、大統領を決める過程で重要な役割を演じることになった。クレイはジャクソンを嫌っており、ジャクソンについて「私はニューオーリンズで2,500名のイギリス人を殺した者が最高執行責任者の様々な難しく複雑な任務に適任であるとは思えない」と言った。さらにクレイのアメリカ・システムは、ジャクソンやクロウフォードよりも、関税や内陸改良に関するアダムズの立場に非常に近いものだったので、クレイはアダムズを支持した。ジョン・クィンシー・アダムズは1825年2月9日、下院での最初の投票で大統領に当選した。 アダムズの勝利は、一般選挙でも選挙人選挙でも最多票を得ており、自分が大統領に選ばれるものと思っていたジャクソンに衝撃を与えた。アダムズ大統領がクレイを国務長官に指名したとき、これはクレイを次の大統領と宣言したようなものだった。アダムズやその前任者3人も国務長官を経験していた。ジャクソンとその追随者達はアダムズとクレイを「裏取引」をやったと非難した。ジャクソン会派はその後の4年間この主張を繰り返し、遂には1828年のアダムズ対ジャクソンの再戦でジャクソンの勝利に繋げた。クレイは裏取引について否定し、それがあったと言う証拠は一つも見つからなかった。
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