1824年 - 1825年
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「西インド諸島海賊掃討作戦」の記事における「1824年 - 1825年」の解説
西インド諸島戦隊の歴史を通じて、熱帯性の疫病がアメリカの軍艦で流行ることが多く、その場合は母国に戻る必要があった。1824年1月までに西インド諸島戦隊の大半が、主に疫病のために呼び戻されたが、2月にはポーター代将指揮の戦隊が、USSファイアフライを旗艦として数か月間の作戦に戻り、7月には再度北に戻った。この期間、プエルトリコ海域の海賊が1825年半ばまで活動を強め初め、7月と8月には10隻のアメリカ商船が攻撃されたと報告された。このときはアメリカ海軍の数艦しか持ち場に残っていなかった。10月には戦隊の大半が持ち場に戻った。ポーター代将は1825年2月に任務を解かれ、メキシコ海軍に加わった。これは1824年10月にプエルトリコのスペイン当局がアメリカのUSSピーコック指揮官プラット大尉を拘束した後のことだった。この月、海賊がデンマーク領バージン諸島のセントトーマス島を襲撃し、アメリカ人の所有する企業から盗んだ5,000ドル相当の商品を持ってファハルドに戻った。このアメリカ人店主はプラット大尉にその商品の奪還を手伝ってくれるよう頼んだ。10月27日、プラットは海賊に気付かれないよう部隊員に民間人の服装をさせて上陸したが、その結果スペイン軍に逮捕され、海賊行為で告発された。プラットは何故制服を着ていないか説明したので、スペイン当局は隊員の1人が大尉の征服と任命書を持ってくることを認めた。持ってきたこれらの物を確認した後でアメリカ兵は釈放された。ポーター代将はこのことを知ると、USSジョン・アダムズ、ビーグル、グランパスを伴ってファハルドに向かった。そこでは11月14日に部隊を上陸させ、スペインからの謝罪を要求した。最終的にスペインは謝罪を公開することに同意したので、遠征隊は艦船に乗って戻った。アメリカ合衆国政府はポーター代将の行動に満足せず、軍法会議に掛けたうえでその任務から辞任させた。西インド諸島海賊に対するアメリカ軍の作戦は1825年に勝利を宣言して終わったが、その後も時として海賊行為は続いた。 1825年3月、ガリニッパーはフリゲート艦HMSダートマスとスクーナー艦HMSライアン、HMSユニオンに伴われ、キューバの海賊に対する作戦行動を行った。アメリカ海軍のアイザック・マッキーバー大尉がサグア・ラ・グランド河口で敵対的なスクーナーに対する攻撃を指揮した。アメリカとイギリスの戦隊はこの船を捕獲し、海賊8名を殺し、11名を捕獲したが、自軍は1名が負傷しただけだった。翌日、別のスクーナーが捕獲されたが、海賊は逃亡したので、無血でその船を確保した。有名な海賊ロベルト・コフレシが3月2日にUSSグランパスとスペインのスループ2隻にボカ・デル・インフィエルノ沖で敗れた。コフレシは成功した最後のカリブ海海賊だと見なされている。コフレシが1825年3月29日に処刑された後、この地域では暫くの間海賊行為は減少した。西インド諸島におけるアメリカ海軍の作戦任務は、1842年までにアメリカ海軍のホーム戦隊とブラジル戦隊に渡されることになった。
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