第二次王政復古(1815年)
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「フランス復古王政」の記事における「第二次王政復古(1815年)」の解説
タレーランは、ナポレオンの百日天下の警察相フーシェと同様に、ブルボン朝再興により権勢を回復した。第二次王政復古を機に南仏を中心に第二次白色テロ(英語版)が始まり、王政支持者はナポレオンの復権に協力した者に対する復讐に燃え、200人ないし300人が殺害、数千人が追放された。テロの実行者らは、当時の超王党派(ユルトラ)の指導者アルトワ伯爵(後のシャルル10世)のシンボルカラーである緑色の記章を身に着けていたことから、緑党 (fr:Verdets) と呼ばれた。当時の地方庁には暴力行為を防止する余力がなく、国王政府が官憲を派遣して治安を回復していた。 1815年11月20日に第二次パリ条約が調印され、第一次パリ条約より厳しい条件が課された。フランスは7億フランの賠償金の支払を課せられ、その国境を1790年当時のものに縮小された。ワーテルローの戦いの後、フランスは120万の外国兵に占領されたが、約20万の兵が1818年まで占領を継続するものとされ、フランスには賠償金に加えて占領軍の駐留経費負担の支払が課せられた。このことや白色テロに対する強い反感の矛先はルイ18世に向けられた。 ルイ18世の治世初期の首相はタレーラン、リシュリュー公爵、ドゥカズ公爵ら穏健派が務め、ルイ18世自身も慎重な政策をとった。1815年の選挙(英語版)でユルトラが圧勝し、ルイ18世のいう「またと見出しがたい議会(la chambre introuvable)」が成立すると、議会はタレーラン=フーシェ内閣を打倒するとともに、白色テロの正当化、文官5万人ないし8万人・武官1万5,000人の罷免を求めた。そして、1789年10月に亡命して以来「新生フランスと無縁になっていた」リシュリューが、後継首相に任命された。一方で、ユルトラ議会は王政と教会の立場を積極的に支持していくとともに、王政史上の人物の記念顕彰を呼びかけた。会期中、国家的儀式はユルトラ政治の代名詞となっていき、ルイ18世を大いに悩ませた。おそらく最穏健派の閣僚であろうドゥカズは、国民衛兵(多くの緑党が徴兵されていた)の政治化防止に着手し、1816年7月に民兵による政治活動が禁止された。 議会と国王の立場が対立したため、ユルトラは代議院の権限を主張し始めた。すなわち、議会の予算承認権により1816年度予算の成立を阻止しようとし、政府の譲歩を引き出した。しかし、議会多数派の代表者をもって内閣を組織する保証を国王から得ることはできなかった。 1816年9月、ルイ18世は反動政策をとる議会を解散し、選挙工作が行われたことで1816年の議会(英語版)は自由主義者が多数を占めた。リシュリューは1818年12月29日まで首相を務め、次いでドゥソル侯爵(英語版)が1819年11月19日まで、ドゥカズ(1818年から1820年まで実質上の政府首班)が1820年2月20日まで登板した。この時代には純理派(英語版)(ドクトリネール)が政策を主導した。翌1817年、政府は選挙法を改正し、ゲリマンダリングを行うとともに裕福な商工業者に選挙権を付与して、ユルトラが将来の選挙で多数派に返り咲くことを防止しようとした。また、新聞の検閲を廃止・緩和し、軍の階級のいくつかに昇進競争の途を開き、相互学校の設立を認めてカトリックによる公初等教育の独占を破った。ドゥカズは多くのユルトラの知事(英語版)・郡長を排除したところ、その補選では非常に高い割合でボナパルティストないし共和主義者が当選したが、ユルトラの戦略投票によって返り咲いた者もいた。政府がその地位を固めていくと、ユルトラは官吏の雇用・昇進を進める代議院議員(代議士)を厳しく批判した。 1820年までに野党側の自由主義者はユルトラとともに議会を二分して御しがたい存在となっていたため、ドゥカズと国王は選挙法改正を模索し、御しやすく保守的な多数派の形成を確実にしようとした。ところが、王弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)の息子で王位継承者のベリー公爵(両人とも極端な反動主義者)が1820年2月にボナパルティストの手で暗殺されると、これを契機にドゥカズが失脚し、ユルトラが再び優勢となった。 1820年から1821年までの短期間リシュリューが再登板した。新聞の検閲が強化され、裁判なき拘留が復活し、フランソワ・ギゾーらドクトリネールの指導者に対し高等師範学校での講義が禁止されるなどした。リシュリューの下で選挙法が改正され、1820年11月の選挙(英語版)から最富裕層の選挙人に二重投票権が与えられることとなった。ユルトラの巻き返しでその指導者ヴィレール伯爵(英語版)を首班とする新内閣が成立し、向こう6年間続いた。ユルトラは政権に返り咲くに当たりさまざまな好機に恵まれることとなった。すなわち、ベリー公爵の死から7か月後にベリー公爵夫人が息子アンリを出産し「奇跡の子」と呼ばれたこと、1821年にナポレオンがセントヘレナで死去したこと、その遺子ライヒシュタット公爵の身柄が依然としてオーストリアの手中にあったことなどである。また、シャトーブリアンを筆頭に、ユーゴー、ラマルティーヌ、ヴィニー、ノディエなどの作家がユルトラ的な主義主張のもとに結集し、良き文学の会(société des bonnes lettres)を結成した。ちなみに、ユーゴーとラマルティーヌは後に共和主義者に転向するが、ノディエはもとジャコバン派から王党派に転向した人物だった。しかし、まもなくヴィレールは国王と同様に慎重になり、ルイ18世の存命中は、あからさまな反動政策は最小限に抑えられた。 ユルトラは支持を広げ、軍内に拡大する反対論を抑えて1823年にスペインに干渉し、スペイン・ブルボン朝の国王フェルナンド7世を支援してスペインの自由主義政府に対抗し、国民の愛国心をあおった。軍事行動にはイギリスの後ろ盾があったが、この干渉は大要、ナポレオンの治世下でイギリスが失っていたスペインへの影響力を取り戻そうとしたものと見られていた。フランス軍は聖ルイの十万の息子たち(英語版)と呼ばれ、アルトワ伯爵の息子アングレーム公爵が指揮を執った。フランス軍は小戦で自由主義者を撃退しながらマドリード、その後カディスへ進軍し(1823年4月–9月)、向こう5年間スペインに駐留した。1816年の議会と同様に利益誘導が行われ、シャルボンヌリー(charbonnerie、フランス語でカルボナリと同義)への不安がもたらされたことで、ユルトラは一層支持を強め、1824年の選挙(英語版)で圧勝した(「再び見出された議会(la chambre retrouvée)」)。 ルイ18世は1824年9月16日に死去し、王弟アルトワ伯爵が王位を継承してシャルル10世となった。
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