第二次王政復古とは? わかりやすく解説

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第二次王政復古(1815年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 08:57 UTC 版)

フランス復古王政」の記事における「第二次王政復古(1815年)」の解説

タレーランは、ナポレオン百日天下警察フーシェ同様にブルボン朝再興により権勢回復した。第二次王政復古を機に南仏中心に第二次白色テロ英語版)が始まり王政支持者ナポレオン復権協力した者に対す復讐燃え200人ないし300人が殺害数千人が追放された。テロ実行者らは、当時超王党派(ユルトラ)の指導者アルトワ伯爵(後のシャルル10世)のシンボルカラーである緑色記章を身に着けていたことから、緑党 (fr:Verdets) と呼ばれた当時地方庁には暴力行為防止する余力がなく、国王政府官憲派遣して治安回復していた。 1815年11月20日第二次パリ条約調印され第一次パリ条約より厳しい条件課された。フランスは7億フラン賠償金支払課せられ、その国境1790年当時のものに縮小された。ワーテルローの戦いの後、フランス120外国兵に占領されたが、約20の兵が1818年まで占領継続するものとされ、フランスには賠償金加えて占領軍駐留経費負担支払課せられた。このことや白色テロ対する強い反感矛先ルイ18世向けられた。 ルイ18世治世初期首相タレーランリシュリュー公爵、ドゥカズ公爵穏健派務めルイ18世自身慎重な政策をとった。1815年選挙英語版)でユルトラが圧勝しルイ18世のいう「またと見出しがたい議会la chambre introuvable)」が成立すると、議会タレーランフーシェ内閣打倒するとともに白色テロ正当化文官5万人ないし8万人武官1万5,000人の罷免求めた。そして、1789年10月亡命し以来新生フランス無縁になっていた」リシュリューが、後継首相に任命された。一方で、ユルトラ議会王政教会立場積極的に支持していくとともに王政史上の人物記念顕彰呼びかけた。会期中、国家的儀式はユルトラ政治代名詞となっていき、ルイ18世大い悩ませた。おそらく最穏健派閣僚であろうドゥカズは、国民衛兵多く緑党徴兵されていた)の政治化防止着手し1816年7月民兵による政治活動禁止された。 議会国王立場対立したため、ユルトラは代議院権限主張し始めた。すなわち、議会予算承認により1816年予算の成立阻止しようとし、政府譲歩引き出した。しかし、議会多数派代表者をもって内閣組織する保証国王から得ることはできなかった。 1816年9月ルイ18世反動政策をとる議会解散し選挙工作が行われたことで1816年議会英語版)は自由主義者多数占めたリシュリュー1818年12月29日まで首相務め次いでドゥソル侯爵英語版)が1819年11月19日まで、ドゥカズ(1818年から1820年まで実質上の政府首班)が1820年2月20日まで登板した。この時代には純理派英語版)(ドクトリネール)が政策主導した。翌1817年政府選挙法改正しゲリマンダリングを行うとともに裕福な商工業者選挙権付与して、ユルトラが将来選挙多数派返り咲くことを防止しようとした。また、新聞検閲廃止緩和し軍の階級いくつか昇進競争の途を開き相互学校設立認めてカトリックによる公初等教育独占破った。ドゥカズは多くのユルトラの知事英語版)・郡長排除したところ、その補選では非常に高い割合でボナパルティストないし共和主義者当選したが、ユルトラの戦略投票によって返り咲いた者もいた。政府がその地位固めていくと、ユルトラは官吏雇用昇進進め代議院議員代議士)を厳しく批判した1820年までに野党側の自由主義者はユルトラとともに議会二分して御しがたい存在となっていたため、ドゥカズと国王選挙法改正模索し御しやすく保守的な多数派形成確実にようとした。ところが、王弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)の息子王位継承者ベリー公爵(両人とも極端な反動主義者)が1820年2月にボナパルティストの手暗殺されると、これを契機にドゥカズが失脚し、ユルトラが再び優勢となった1820年から1821年までの短期間リシュリューが再登板した新聞検閲強化され裁判なき拘留復活しフランソワ・ギゾーらドクトリネールの指導者に対し高等師範学校での講義禁止されるなどした。リシュリューの下で選挙法改正され1820年11月選挙英語版)から最富裕層選挙人二重投票与えられることとなった。ユルトラの巻き返しでその指導者ヴィレール伯爵英語版)を首班とする新内閣が成立し向こう6年続いた。ユルトラは政権返り咲くに当たりさまざまな好機恵まれることとなった。すなわち、ベリー公爵の死から7か月後にベリー公夫人息子アンリ出産し奇跡の子」と呼ばれたこと、1821年ナポレオンセントヘレナ死去したこと、その遺子ライヒシュタット公爵身柄依然としてオーストリアの手中にあったことなどである。また、シャトーブリアン筆頭に、ユーゴーラマルティーヌヴィニーノディエなどの作家がユルトラ的な主義主張のもとに結集し良き文学の会(société des bonnes lettres)を結成したちなみにユーゴーラマルティーヌは後に共和主義者転向するが、ノディエはもとジャコバン派から王党派に転向した人物だった。しかし、まもなくヴィレールは国王同様に慎重になり、ルイ18世存命中は、あからさまな反動政策最小限抑えられた。 ユルトラは支持広げ、軍内に拡大する反対論抑えて1823年スペイン干渉しスペイン・ブルボン朝国王フェルナンド7世支援してスペイン自由主義政府対抗し国民愛国心あおった軍事行動にはイギリス後ろ盾があったが、この干渉大要ナポレオン治世下でイギリス失っていたスペインへの影響力取り戻そうしたもの見られていた。フランス軍聖ルイの十万の息子たち英語版)と呼ばれアルトワ伯爵息子アングレーム公爵指揮を執った。フランス軍小戦自由主義者撃退しながらマドリードその後カディス進軍し1823年4月9月)、向こう5年スペイン駐留した1816年議会同様に利益誘導が行われ、シャルボンヌリー(charbonnerie、フランス語カルボナリ同義)への不安がもたらされたことで、ユルトラは一層支持強め1824年の選挙英語版)で圧勝した(「再び見出され議会la chambre retrouvée)」)。 ルイ18世1824年9月16日死去し王弟アルトワ伯爵王位継承してシャルル10世となった

※この「第二次王政復古(1815年)」の解説は、「フランス復古王政」の解説の一部です。
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