第二次無癩県運動とは? わかりやすく解説

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第二次無癩県運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 07:37 UTC 版)

無癩県運動」の記事における「第二次無癩県運動」の解説

1947年 (昭和22年) 12月31日内務省廃止により、警察行政都道府県移りらい予防法成立施行された。ハンセン病行政以前から厚生省移っていたが、新たに警察自治体警察になったので、ハンセン病行政一部都道府県所轄移った一時は、市町村にも関係したが、守秘義務観点から、都道府県限定した患者届け出警察署長宛てから都道府県知事宛てとなった同年11月厚生省各都道府県知事にあて「無らい方策実施に関する件」を通知し「らいの予防撲滅文化国家建設途上基本となる重要事にして今一段の努力に依って無らい国家建設成果挙げ得る段階にある」として無らい方策実施要領にそった施策実現求め、「各都道府県において既知未収容者患者感染の危険の大きいものから順次入所せしめる」とした。1949年昭和24年)には、厚生省の「昭和25年度のらい予防事業について」(厚生省公衆衛生局長通達)により、予防事業を強力かつ徹底的に実施するように求められた。診断技術の向上のための講習会実施戦時中中断していた一斉検診復活、らい患者および容疑者名簿作成患者の収容、および療養所退所者指導一時救護徹底などが指示された。指示受けた各都道府県では所轄保健所に「民衆の噂にある疑らい患者調べ上げ報告する」ように指示したまた、機関通じて啓発にも力をいれた。診断した医師直接都道府県知事報告、それをらい指定医師に連絡し、その医師都道府県係官秘密保持のため一定である)が入所や、家族援護当たった1951年昭和26年)に発生した藤本事件では、爆破殺人事件犯人として逮捕され藤本松夫が、ハンセン病罹患していたため、公判難航した1962年昭和37年)、死刑処された。 「藤本事件」も参照 1951年昭和26年)、山梨県において長男ハンセン病であると分かり村八分恐れて家族一家9人の心中事件起こったそれ以外にも1950年昭和25年)には熊本県1983年昭和58年)には香川県各県一家心中(含む未遂事件などハンセン病患者であることで起きた悲劇的事件は多い。1958年昭和33年)、療養所収容人数最高に達しその後減少転じた

※この「第二次無癩県運動」の解説は、「無癩県運動」の解説の一部です。
「第二次無癩県運動」を含む「無癩県運動」の記事については、「無癩県運動」の概要を参照ください。

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