第二次無癩県運動
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1947年 (昭和22年) 12月31日、内務省の廃止により、警察行政は都道府県に移り、らい予防法が成立・施行された。ハンセン病行政は以前から厚生省に移っていたが、新たに警察が自治体警察になったので、ハンセン病行政の一部は都道府県に所轄が移った。一時は、市町村にも関係したが、守秘義務の観点から、都道府県に限定した。患者の届け出も警察署長宛てから都道府県知事宛てとなった。同年11月、厚生省は各都道府県知事にあて「無らい方策実施に関する件」を通知し「らいの予防撲滅は文化国家建設途上の基本となる重要事にして今一段の努力に依って無らい国家建設の成果を挙げ得る段階にある」として無らい方策実施要領にそった施策の実現を求め、「各都道府県において既知の未収容者患者を感染の危険の大きいものから順次入所せしめる」とした。1949年(昭和24年)には、厚生省の「昭和25年度のらい予防事業について」(厚生省公衆衛生局長通達)により、予防事業を強力かつ徹底的に実施するように求められた。診断技術の向上のための講習会の実施、戦時中に中断していた一斉検診の復活、らい患者および容疑者の名簿の作成、患者の収容、および療養所退所者の指導、一時救護の徹底などが指示された。指示を受けた各都道府県では所轄保健所に「民衆の噂にある疑らい患者を調べ上げ報告する」ように指示した。また、各機関を通じて啓発にも力をいれた。診断した医師は直接都道府県知事に報告、それをらい指定医師に連絡し、その医師と都道府県の係官(秘密保持のため一定である)が入所や、家族援護に当たった。1951年(昭和26年)に発生した藤本事件では、爆破・殺人事件の犯人として逮捕された藤本松夫が、ハンセン病に罹患していたため、公判は難航したが1962年(昭和37年)、死刑に処された。 「藤本事件」も参照 1951年(昭和26年)、山梨県において長男がハンセン病であると分かり、村八分を恐れて家族一家9人の心中事件が起こった。それ以外にも1950年(昭和25年)には熊本県、1983年(昭和58年)には香川県の各県で一家心中(含む未遂)事件など、ハンセン病患者であることで起きた悲劇的事件は多い。1958年(昭和33年)、療養所の収容人数は最高に達し、その後は減少に転じた。
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