第二次淀古城の戦い
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1573年(元亀4年)2月に、信長と対立していた15代将軍足利義昭は反信長を決意し、二条城で自ら兵をあげた。しかし、信長は岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時は正親町天皇の勧告により二条城を信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠城し再び信長討伐の兵を挙げた。義昭の要請に応じたのが三好三人衆の1人岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田軍に攻城され(槇島城の戦い)、義昭は2人の質子を入れ降伏し河内に逃亡した。 一方、淀古城に立て篭もる岩成軍に対しては、木下秀吉(羽柴秀吉)隊が対した。秀吉は淀古城の番頭大炊頭義元、諏訪飛騨守三將らを味方につけ、更に信長は近隣の勝竜寺城城主細川藤孝に出軍を命じ攻城軍に加わった。これに対応するため友通は淀古城を出軍し応戦したようである。防御施設が整っている城からわざわざ討って出たのは番頭大炊頭、諏訪三將らが進言したためと言われている。友通は奮戦したが、最後には細川藤孝の家来下津権内に首を取られた。 首は近江の高島に出軍中の信長の元に届けられ、比類なき働きに嘉賞し着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。 1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、秀吉と光秀の山崎の戦いでも利用された。秀吉の天下となってからは、1589年(天正17年)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが、1591年(天正19年)に死去してしまった。 鶴松が死亡した後は、甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、切腹。家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となった。
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