第二次淀古城の戦いとは? わかりやすく解説

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第二次淀古城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 14:10 UTC 版)

淀古城」の記事における「第二次淀古城の戦い」の解説

1573年元亀4年2月に、信長対立していた15代将軍足義昭は反信長決意し二条城で自ら兵をあげた。しかし、信長岐阜城出立二条城攻囲した。この時は正親町天皇勧告により二条城信長明け渡したが、同年7月槇島城籠城し再び信長討伐兵を挙げた義昭要請応じたのが三好三人衆1人岩成友通で、淀古城立て篭もったが、槇島城織田軍に攻城され(槇島城の戦い)、義昭2人の質子を入れ降伏し河内逃亡した一方淀古城立て篭もる岩成軍に対しては、木下秀吉羽柴秀吉)隊が対した秀吉淀古城番頭大炊頭義元諏訪飛騨守三將らを味方につけ、更に信長近隣勝竜寺城城主細川藤孝出軍命じ攻城軍加わった。これに対応するため友通は淀古城出軍応戦したようである。防御施設整っている城からわざわざ討って出たのは番頭大炊頭諏訪三將らが進言したためと言われている。友通は奮戦したが、最後に細川藤孝家来下津権内に首を取られた。 首は近江高島出軍中の信長元に届けられ比類なき働き嘉賞着ていた胴衣をかけたと『信長公記』には記されている。 1582年天正10年6月本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀淀古城改修した記録され秀吉光秀山崎の戦いでも利用された。秀吉天下となってからは、1589年天正17年3月に、秀吉の弟豊臣秀長淀古城改修し秀吉側室茶々与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるうになる。この城で鶴松産まれるが、1591年天正19年)に死去してしまった。 鶴松死亡した後は、甥の秀次が秀吉養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉軋轢生じ1595年文禄4年)、切腹家老でこの城の最後城主であった木村重茲連座、城も廃城となった

※この「第二次淀古城の戦い」の解説は、「淀古城」の解説の一部です。
「第二次淀古城の戦い」を含む「淀古城」の記事については、「淀古城」の概要を参照ください。

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