第二次河東一乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:09 UTC 版)
天文14年(1545年)、義元は北条氏に占拠されたままの河東を奪還すべく行動を開始した。義元は晴信による仲介のほか、独自に北条氏との和睦の道を探り、京都より聖護院門跡道増の下向を請うて北条氏康との交渉を行ったが、このときは氏康が難色を示し不調に終わる。そのため義元は、引き続き武田を仲介に和睦を模索しつつも、道増の帰洛後ただちに軍事行動を起こした。 ただし、衝突の兆候は前年の天文13年(1544年)段階からあり、同年10月に今川・北条両軍が衝突し、将軍足利義晴が幕臣の大舘晴光や進士晴舎を介して両者の停戦と和平交渉を図った文書が確認できる。また、同じ年に駿東郡を本拠とする北条氏の従属国衆である葛山氏元が北条氏を離反して今川氏に従属している。氏元の養父葛山氏広は伊勢盛時(北条早雲)の子が葛山氏の養子に入ったとされ、氏元自身も北条氏綱の娘婿であった。 義元は晴信や北関東において北条方と抗争していた山内上杉氏の上杉憲政に、北条氏の挟み撃ち作戦を持ちかける。7月下旬、義元は富士川を越え、善得寺に布陣。義元と信玄は対面して申し合わせた。氏康率いる北条軍は駿河に急行してこれに応戦したものの、今川・武田が駿河、山内上杉が関東で同時に軍事行動に出て北条軍の兵力を分断する作戦に打って出たことで、前回の第1次とは逆に挟み撃ちにされてしまった。 晴信率いる武田軍は9月9日に甲府を出発しているものの、14日に途中の本須で氏康の書状を受け取ってから15日に駿河大石寺に入り、翌16日、今川軍に武田軍が合流している。しかし、ここまでの晴信の行軍は意図的に大回りをしたり、本須で逗留するなどの遅延行動を行っており、北条と今川の間で板挟みになっていた晴信は氏康と和議の仲介の申し入れを行っていたと思われる。今川・武田の連合軍の攻撃に押された北条軍は、吉原城を放棄し三島(静岡県三島市)に退却。9月16日に吉原城は自落する。そのままの勢いで今川軍は三島まで攻め入り、北条幻庵の守る長久保城(駿東郡長泉町)(一説には城将は葛山氏元)を包囲し、今井狐橋などで戦闘に及んだ(狐橋の戦い)。関東では山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城を包囲され氏康は窮地に陥っていた。 しかし、9月27日に入ると、両軍の衝突は小康状態となり、10月に入ると晴信の仲介による和平交渉が開始された。そして、10月22日、長久保城を今川氏に引き渡すことなどを条件に今川義元と北条氏康が停戦に合意、24日には関東での戦いの当事者でもあった関東管領山内上杉憲政を加えた3者から晴信を中人とする和睦を受け入れるとする起請文が提出された(なお、武田氏と山内上杉家の関係は悪化していたものの、未だに開戦に至っていなかったために晴信の仲介を受け入れたとみられる)。 しかし、今川義元や家臣の中には氏康や秘かに氏康と和睦していた晴信に対する不信感があったようで和議が纏まらず、晴信も今川氏重臣である松井貞宗に「関東の情勢を考えると北条を滅ぼすのは得策では無い」と、両上杉の勢力拡大を防ぐことが仲介の真意であることを漏らしてしまっている。 11月初旬、今川家重臣・太原雪斎を交えて誓詞を交し合った後、11月6日、北条氏は長久保城を今川氏に明け渡した(『高白斎記』による)。挟撃の片方を治めた氏康は河越城の戦いに打って出ることとなった。 この講和により河東の乱は終息し、今川は遠江平定・三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれた。その後も今川と北条間は、不信による緊張状態にあったものの争乱に発展することはなく、天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての甲相駿三国同盟が成立した。
※この「第二次河東一乱」の解説は、「河東の乱」の解説の一部です。
「第二次河東一乱」を含む「河東の乱」の記事については、「河東の乱」の概要を参照ください。
- 第二次河東一乱のページへのリンク