第二次枝吉城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:51 UTC 版)
第一次枝吉城の戦いで明石氏は赤松晴政に降伏した後、晴政は細川晴元方となっているので、明石氏も晴元方に属していた。 一方三好長慶は、江口の戦いで晴元配下の三好政長を討ち取り、晴元を畿内から追放した。畿内を収めつつある長慶ではあったが、阿波には弟三好実休、讃岐には十河一存、淡路には安宅冬康、そして摂津と京都には自身がおり、阿波から京都への補給路を確保するため、中間地点にある枝吉城が晴元方に属しているのは問題があった。 天文23年(1554年)11月2日、長慶は挙兵し、まず先陣として三好実休隊と篠原長房隊が枝吉城を攻囲した。しかし、すぐには合戦とはならず明石某軍も防備に徹し籠城戦となった。年が明け天文24年(1555年)正月に三好長慶軍も攻囲軍に加わり太山寺に布陣した。明石某は大軍に驚いたのか同月13日、 「色々懇望候て噯に成て和睦」(『細川両家記』)と和睦した。その後三好長慶軍は依藤城に向かいそこで約1カ月間の攻撃となり、城主であった三木次郎が和議を申し入れ開城した。播磨東二郡を手に入れた三好長慶軍は同年2月27日、開陣とし、阿波勢、淡路勢、そして長慶も芥川山城に帰城した。
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