第二次法難事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:58 UTC 版)
京都の正光寺より薩摩久志浦の中村家(那覇の仲尾次家の本家)へ贈られた本尊と経典が子孫の仲尾次政隆(なかおしせいりゅう)へと密かに伝えられていた。仲尾次は、正光寺の八木正蔵(やぎしょうぞう:薩摩における偽名)と文通し教化を受け、本願寺から「釋了覚」という法名を授けられている。仲尾次は、厳しい取締りの中、辻遊郭の亀という者の家に本尊を安置し、人々を集め布教伝道に励み、1835年には、中山国廿八日講を結成するまでに信者の数が増加していった。信者の増加にともない、拠点を自宅に移している。 しかし密告により、1853年に捕らわれの身となり、1855年八重山へ無期流刑となった。また、300余名の信者もそれぞれ、島々への流刑、所払い、寺入り、罰金刑に処せられた。仲尾次は、配所の石垣島で宮良橋を再建するなど社会公共に尽くし、官民の赦免請願によって、1864年に赦免となり、その翌年に那覇へ帰り着いている。 現在、宮良橋の端に仲尾次等の功績が記された頌徳碑が建立され、題字は大谷尊由の揮毫である。
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