第二次渾作戦(ビアク島沖海戦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:51 UTC 版)
「渾作戦」の記事における「第二次渾作戦(ビアク島沖海戦)」の解説
増援作戦は再開されたが、高速の駆逐艦だけによる輸送に切り替えられることとなった。旅団全部隊を一度に輸送することは不可能のため、約600人が第一陣として運ばれることになった。7日にはアメリカ軍がモクメル第一飛行場に突入した。 8日3時、部隊は駆逐艦「敷波」、「浦波」、「時雨」、「白露」、「五月雨」、「春雨」の6隻で再度ソロンから出撃した。6隻全てが大発動艇を一隻ずつ曳航していた。12時30分、B-25による空襲を受け春雨が沈没したが、部隊はそのままビアク島へ向かった。22時頃、クラッチレー少将率いる重巡「オーストラリア(HMAS)」、軽巡「ボイシ」、「フェニックス」、駆逐艦14隻からなる連合軍艦隊と遭遇し、避退行動に移るが追撃を受けて連合軍艦隊からのレーダー射撃の目標となってしまった。日本軍の駆逐艦は大発を切り離し、「敷波」、「浦波」、「時雨」と「白露」、「五月雨」はそれぞれ別々の方向に退避しながら砲雷同時戦を行った。しかしアメリカ艦隊に被害はなかった。 追跡の途中でクラッチレー少将は日入り後の日本軍の空襲が気になりはじめ、重巡洋艦部隊と後衛の駆逐艦を率いて帰還したが駆逐艦「フレッチャー」を中心とする前衛の駆逐艦部隊は追跡を続行した。22時からの追跡は9日午前2時まで4時間近く続いたが、日本艦隊はかろうじて離脱に成功した。「敷波」乗組員によると普段33ノットの速力しか出したことの無かった艦がこの日は35ノット以上を叩き出したという。しかし、日本艦隊は「時雨」、「五月雨」等が至近弾などで損傷し、輸送も中止された。敵艦隊から離脱後、パラオ近海にて「敷波」は燃料切れで一時海上を漂流した。10日、ハルマヘラ島にて各艦は合流した。
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