1944年 ニューギニア戦線
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「ボイシ (軽巡洋艦)」の記事における「1944年 ニューギニア戦線」の解説
1944年の1月から9月までのボイシは、主にニューギニア島の北部海岸沿いで、南西太平洋連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー大将の作戦に参加した。この方面で活動していたアメリカ海軍は、マッカーサー大将の指揮下で行動する第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)であった。本艦は、姉妹艦フェニックス (USS Phoenix, CL-46) やナッシュビル (USS Nashville, CL-43) などと共に、ニューギニアの戦い(飛び石作戦)に従事する。その中にはマダンへの砲撃(1月25日、26日)、ホーランジアの戦いにともなうフンボルト湾上陸作戦支援(4月22日)、ワクデ島砲撃(4月29日、30日)およびワクデ島上陸(5月15日 - 25日)、ビアク島上陸(5月25日 - 6月10日)、ヌムフォア島(英語版)上陸(7月1日、2日)、サンサポア岬上陸(7月27日 - 8月31日)、モロタイ島占領(9月1日 - 30日)が含まれる。 詳細は「渾作戦」を参照 5月27日から始まったビアク島攻防戦で、ボイシはサボ島沖海戦で砲火を交えた重巡青葉と同じ海域で行動することになった。連合軍のビアク来襲に驚いた連合艦隊は渾作戦を発動し、南方軍の海上機動第二旅団を海軍艦艇でビアク島に強行輸送することになった。ミンダナオ島ダバオに集結した渾部隊の指揮官は第十六戦隊司令官左近允尚正少将で、青葉に将旗を掲げていた。渾部隊は6月2日夕刻にダバオを出撃したが、B-24に触接されたり、米軍機動部隊(ボイシなどの巡洋艦部隊を誤認)出現等の情報により、ビアク行は中止となった。戦艦扶桑や第五戦隊はダバオに引返し、青葉など輸送隊のみニューギニア島西パプア州のソロンに進出した。6月4日と5日には小数機の日本軍機が連合軍巡洋艦部隊(巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ナッシュビルが至近弾で損傷した。 連合艦隊は第二次渾作戦を発動し、左近允少将は青葉から駆逐艦敷波(第19駆逐隊)に旗艦を変更した。輸送部隊6隻(輸送隊〈敷波、浦波、時雨〉、警戒隊〈春雨、白露、五月雨〉)を率いて6月8日午前3時にソロンを出撃したが、B-25の空襲で春雨が沈没した。日本軍輸送部隊は尚もビアク島にむけて進撃を続けたので、ボイシなど連合軍巡洋艦部隊は夜戦で迎え撃った。重巡1、軽巡2、駆逐艦14隻を擁する連合軍側は圧倒的優勢だったので、渾部隊(駆逐艦5)は直ちに反転して逃走を開始した。ボイシなど巡洋艦部隊は渾部隊を追撃したが、戦果は時雨を小破させただけだった。 第二次渾作戦が失敗すると、連合艦隊は大和型戦艦を渾作戦に投入した。第三次渾作戦部隊は6月12日にハルマヘラ島バチャン泊地に集結した。ボイシなど巡洋艦を主戦力とする第七艦隊にとって、大和型戦艦(大和、武蔵)の出現は重大な脅威として受け止められた。だが6月13日にサイパン島方面の情勢が急変した。渾作戦は中止され、第三次渾作戦部隊の主力は北上して「あ号作戦」に復帰した。青葉を含む第十六戦隊もシンガポール方面に後退した。
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