連合軍エースとの空戦
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連合軍のトップクラスのエースを相手とした一式戦による確実戦果としては主に以下の事例が存在する。 1944年3月5日、ニューギニア戦線において、飛行第77戦隊三苫軍曹・青柳軍曹操縦の一式戦が、21機撃墜を誇るニール・カービィ大佐操縦のP-47Dを確実撃墜。1944年初期、当時21機撃墜のニール・カービィ大佐(P-47操縦)は24機撃墜のリチャード・ボング大尉(P-38操縦)とアメリカ軍トップ・エースの座を巡り争っており、カービィ大佐は第348戦闘航空群指揮官(群長・司令)として新鋭のP-47を操縦し、1943年10月には同戦線にて第64戦隊初代戦隊長を歴任したベテランである第14飛行団長寺西多美弥中佐操縦の一式戦を撃墜するなど戦果を多数記録していた。しかし3月5日、僚機のP-47D 2機を率いて飛行第208戦隊の九九式双軽爆撃機3機を攻撃中のところを第77戦隊の一式戦5機が奇襲し、三苫軍曹機・青柳軍曹機が低空を低速でもがきまわるカービィ大佐機の操縦席に機関砲を射撃しこれを撃墜。ただちに部下のP-47Dが駆けつけたもののカービィ大佐は戦死した。一式戦の損害は1機が被弾不時着のみ。 1945年1月7日、フィリピン戦線において、飛行第54戦隊杉本明准尉操縦の一式戦と飛行第71戦隊福田瑞則軍曹操縦の四式戦が、P-38 4機編隊と遭遇。38機撃墜を誇るアメリカ全軍第2位のエースであるトーマス・マクガイア少佐操縦のP-38L、僚機でベテランのジャック・リットメイヤー中尉のP-38Jが未帰還(戦死)。不意の遭遇戦で4機のP-38に遭遇し劣位から応戦した杉本准尉機は離脱に成功するも被弾、不時着に成功したが地上でゲリラに射殺された。杉本機の空戦を目撃し現場に駆けつけた福田軍曹機は対進戦でP-38 1機を撃墜。福田機は残ったP-38 2機(エド・ウィーバー大尉機、ダグ・スロップ中尉機)の追撃を回避、生還するも機体は被弾多数により廃棄。福田軍曹は空戦時はマラリアの高熱により意識朦朧状態であり、かつ落下タンクと100kg爆弾を搭載したままであった。本空戦は乱戦であり、マクガイア機は杉本機または福田機に撃墜されたとする説、低空・低速で無理な機動を試みたことにより失速・墜落したとする説があり、詳細は明らかでない。いずれにせよ、日本陸軍との戦闘でアメリカ軍の両名が戦死したことは事実である。 詳細は「トーマス・マクガイア#経歴#最期」を参照
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