フィリピン航空戦
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1944年後期、マリアナ沖海戦に勝利しサイパンを攻略したアメリカ軍は、フィリピン奪回のため同年10月にレイテ島に上陸(レイテ島の戦い・レイテ沖海戦)。ここに「比島決戦」と称され陸海空の大兵力が投入されることになるフィリピンの戦いが勃発し、ルソン島やビサヤ諸島(ネグロス島等)には日本陸海軍航空部隊が集結していたことからレイテを中心に苛烈な航空戦が繰り広げられた(フィリピン航空戦)。この大規模航空戦に陸軍は第16飛行団を筆頭に四式戦を本格的に大量投入(ほか三式戦も投入)、また海軍機多数も従軍、さらにアメリカ軍も陸海軍機が入り交じる混戦であるため戦果損害の照合特定は困難となる。 このフィリピン航空戦に海軍は10月下旬、陸軍は11月12日の時点で特別攻撃隊を初実戦投入し、以降数々の特攻隊を編成し敵艦船攻撃に運用している。陸軍特別攻撃隊の一式戦によるフィリピンでの確実な特攻主要戦果としては、11月27日に八紘隊が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入し損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日に靖国隊が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し損害を与えた。1945年1月9日に一誠隊とされる一式戦が戦艦「ミシシッピ」に突入。このほか軽巡洋艦「ナッシュビル」(12月13日一宇隊)などにも一式戦が突入した可能性がある。なかでも、戦艦「メリーランド」に突入した靖国隊の一式戦は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に、機首を上げて垂直急上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にして真っ逆さまの急降下状態で全く対空射撃を浴びることなく40.6cm砲(16インチ砲)を備える第2主砲塔に命中している。その見事な操縦を見ていた「メリーランド」の水兵は「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻一式戦の曲芸飛行を見ていた「モントピリア」艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。主砲塔に損害を受けた「メリーランド」は大破炎上し、修理のため翌1945年3月まで戦列を離れている。 決戦に先駆けた7月に一式戦装備部隊としては第30戦隊・第31戦隊が進出(第31戦隊はもとは襲撃戦隊)。9月に空母機動部隊艦載機と交戦し第31戦隊が撃墜多数の戦果を報じたが、第30戦隊は大損害を受け早くも戦力回復のため日本に一時帰還している。10月11日第26戦隊・第204戦隊、22日第20戦隊、23日第24戦隊、30日独立飛行第24中隊、31日には第33戦隊のそれぞれ一式戦部隊が同方面に進出。 フィリピン戦において日本軍は当初ルソン島での決戦を意図していたが、台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の虚構の戦果に影響され急遽レイテ島での決戦に変更。そのため10月末よりルソン島に配置していた地上部隊多数を船団輸送によりレイテ島に移送する多号作戦が開始され、日本軍航空部隊はその上空掩護にあたっていた。11月1日、マニラからのその増援たる第1師団を乗せた船団はオルモックに到着、人員物資を揚陸中の翌2日に第49戦闘航空群のP-38が飛来し直掩の第33戦隊・第26戦隊・第20戦隊の一式戦および飛行第52戦隊・飛行第200戦隊の四式戦などが交戦、断続的に続いたこの空戦で6機(一式戦4機・四式戦2機)を喪失するも5機(P-38 5機、第8戦闘飛行隊・第9戦闘飛行隊)を撃墜し、この防空戦により第1師団のレイテ上陸は成功に終わった(多号作戦#第2次輸送部隊)。 船団掩護の一方で、日本軍航空部隊はアメリカ軍上陸船団の輸送船やレイテ島のアメリカ軍飛行場に対し撃滅戦を重点的に行っており、4日未明には戦闘機および九九襲数機・九九双軽7機がタクロバンの飛行場と沖に停泊中の輸送船を攻撃。この攻撃によってP-38 2機を地上破壊、その他39機が損傷を受け第345爆撃航空群の要員100名以上が戦死した。一式戦はクラスター爆弾であるタ弾を搭載し、タクロバン飛行場に対し少数機で夜間・未明の低空爆撃を繰り返して大きな戦果を挙げている(#戦闘爆撃機)。 しかし4日・6日には一式戦が配備されていたネグロス島ファブリカ飛行場が攻撃を受け壊滅、第20戦隊・第33戦隊は機体受領のためマニラへ後退した。 10日には北方方面たる千島列島から第54戦隊(一式戦装備)が進出。翌11日、船団掩護のため出撃した第54戦隊の一式戦8機がP-38 2機と交戦し、P-38J 1機(第12戦闘飛行隊ラッセル中尉機)を撃墜。しかしオルモック湾上空の船団直掩ではアメリカ海軍のSBDを護衛するF6Fを相手とする低位戦により、戦隊長以下5名が戦死した。同日、第20戦隊の一式戦3機がF6F 2機(空母「ワスプ」艦載機)と交戦、1機を撃墜(第81海軍戦闘機隊)。 一連のレイテ航空戦で日本軍航空部隊は急速に消耗するも、1945年1月7日には第54戦隊の一式戦1機および飛行第71戦隊の四式戦1機が、アメリカ全軍第2位のエースであるトーマス・マクガイア少佐のP-38Lないし、その僚機のジャック・リットメイヤー中尉のP-38Jを協同撃墜している(一式戦1機喪失、P-38 2機撃墜、#連合軍エースとの空戦)。 9日にはルソン島にアメリカ軍が上陸(ルソン島の戦い)。陸軍は1月下旬までは戦闘機を補充し空戦を行っていたものの同月末には作戦可能機は十数機にまで落ち込み、フィリピン航空戦は一方的な敗北に終わった。壊滅した第4航空軍各飛行部隊は後退が進められたが、ニューギニア航空戦と同様に後退手段が無くなった飛行部隊の地上勤務者・空中勤務者の多くは地上戦に巻き込まれ戦死、担当戦域が無くなった第4航空軍自体も2月28日に廃止されている。1月上旬に戦力回復を終えルソン島に戻っていた第30戦隊は、一部がとどまり4月上旬まで奇襲攻撃を行っているがこれも5月に台湾へ後退した。
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