フィリピン諸島への到達とは? わかりやすく解説

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フィリピン諸島への到達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 08:14 UTC 版)

ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の記事における「フィリピン諸島への到達」の解説

ロペス・デ・レガスピと部下たちは93日かけて太平洋航海した1565年のはじめ、彼らはマリアナ諸島上陸し短期間停泊し物資を再補給した。彼らはチャモロ人との抗争起こしいくつかの家屋焼き払った。 ロペス・デ・レガスピたちがフィリピン諸島到達しセブ島海岸上陸したのは1565年2月13日のことであった現地人との短い戦いの後、彼らは一旦島去り近くレイテ島カミギン島転々とした後、3月16日ボホール島海岸漂着した。彼らは現地人たちに、自分たちは島を奪いに来たポルトガル人ではないと説得しスパイスと金得た。ロペス・デ・レガスピは地元首長(ダトゥ)・シカトゥナと血盟結んだ互いに腕を切って血を流し、杯に入れて飲み合い互い友情の証としたのである4月27日、ロペス・デ・レガスピたちはセブ島戻った。島の東岸にあるスグボ(現・セブ)を治めていたのは、かつてマゼラン来航の際にキリスト教改宗した酋長ラジャ・フマボンの、息子にあたるラジャ・トゥパスであったが、フマボンはマゼラン裏切り偽りの宴を設けて一行多く毒殺していた。ロペス・デ・レガスピの兵隊たちはこの町を攻撃し破壊した。ここに、彼らはフィリピン諸島における最初の入植地、ビジャ・デル・サンティシモ・ノンブレ・デ・ヘスス(Villa del Santisimo Nombre de Jesúsイエスの最も聖なる御名)とビジャ・デ・サン・ミゲル(Villa de San Miguel、聖ミカエル)を建設した7月増援求めるためと復路開拓のためにロペス・デ・レガスピはアンドレス・デ・ウルダネータメキシコへ戻らせた。 1567年スペイン王命令の元、200人のスペイン人メキシコ人兵士セブ島着いた。彼らは入植地都市成立させ、フエルサ・デ・サン・ペドロ(サン・ペドロ要塞)を築いてメキシコとの貿易前哨地点に、また敵意のある現地人反乱対す備えにした。これは今もセブ市海岸建っている。 1568年、ロペス・デ・レガスピは部下一人スペイン戻し、彼らの成果報告させた。ロペス・デ・レガスピ自身は健康の問題高齢のためセブ残り、後のマニラ征服の際にも兵士たち同行しなかった。この頃彼は北方ルソン島マニラに富があることを聞き二人副官、マルティン・デ・ゴイティ (Martín de Goiti) とフアン・デ・サルセード (Juan de Salcedo) を北部地方探検に向かわせた。

※この「フィリピン諸島への到達」の解説は、「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の解説の一部です。
「フィリピン諸島への到達」を含む「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の記事については、「ミゲル・ロペス・デ・レガスピ」の概要を参照ください。

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