フィリピン防衛戦とは? わかりやすく解説

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フィリピン防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 06:00 UTC 版)

四式十五糎自走砲」の記事における「フィリピン防衛戦」の解説

第1自走砲中隊早急にフィリピン送られることとなり、1944年12月22日ヒ85船団加入輸送船青葉山丸」に乗ってルソン島へ向け出発した。「青葉山丸」は12月30日ルソン島サンフェルナンドでの揚陸作業中にアメリカ軍機による空襲を受け、被弾沈没中隊ホロ1輌と多く装備品失ってしまった。なんとか揚陸できたホロ2輌と中隊は、第14方面軍直轄第14方面軍仮編自走砲中隊鷲見隊)として再編成され同地独立戦車第8中隊新砲塔チハ装備と共にクラーク地区飛行場防衛任務就いた独立戦車第8中隊はクラークフィールド飛行場守備し自走砲中隊隣接するクラークマルコット飛行場防衛するよう命令された。鷲見中隊途中空襲にあって被害出したが、1945年昭和20年1月20日頃に現地到着し警備開始した自走砲中隊ホロ2輌は飛行場に近い二の谷(一の谷から六の谷まであった)に段列配置、ここを陣地として飛行場守備した段列空襲による損害受けておらず、弾薬は豊富であった第2分隊第3分隊から成る2輌のホロは、連日陣地から飛行場出撃砲撃行った1月27日M4中戦車との対戦車戦闘発生した激しい砲爆撃状況で、飛行場は爆煙と吹き上げる土砂覆われ非常に視界悪かったこのため自走砲200mから300mという至近距離での各個戦闘余儀なくされた。2輌のホロ砲撃の後に数分陣地変換しすぐさま砲撃に移るという機動戦闘を行った弾種榴弾であるが、1945年3月20日付けの「敵軍戦法情報によれば野戦重砲榴弾が敵戦車命中した場合「必ズ炎上ス」としている。この戦闘アメリカ軍攻撃撃退したが、鷲見中隊長胸部負傷、ほか5名が負傷して中隊戦力低下した1月29日午後2時、アメリカ軍独立戦車第8中隊に対して攻撃発起した。自走砲中隊守備援護射撃命令されたが、戦場は砲爆撃により錯綜、さらに敵観測機警戒している状況であったホロは爆煙の中で100mから200mほど頻繁に位置変える機動戦闘を行った砲煙すかして対戦車戦闘の結果、敵戦車7両の撃破確認された。これは独立戦車第8中隊との共同戦果であった同日午後6時頃、陣地への後退決意した第2分隊ホロM4中戦車3両と遭遇したが、ホロエンジン止めており、M4中戦車はその存在に気が付いていなかった。乗員進退どうするべきか決めかねていたが、やがてM4中戦車自走砲の方へと進みはじめ、これを見た第2分隊ホロは2発を発砲全速力路上突破した暗闇助けられM4中戦車から直撃は受けなかったものの、榴弾破片により指揮官小幡少尉戦死安藤曹長重傷負い弾薬2人操縦手負傷した。この日の戦闘アメリカ軍はマルコット飛行場占領した中隊は三の谷と四の谷へ後退し戦闘継続した2月8日、マルコット飛行場から敵戦車が二の谷を攻撃迎撃のため第2分隊ホロ出撃したが、谷間移動するホロ山上からのM2重機関銃による集中射撃を受け、乗員4名戦死ホロ大破炎上した残った第3分隊ホロ3月初旬ごろ、M4中戦車との対戦車戦闘において撃破された。部隊残余歩兵として終戦まで山岳地帯戦った

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フィリピン防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 09:41 UTC 版)

一式砲戦車」の記事における「フィリピン防衛戦」の解説

1945年昭和20年1月8日アメリカ軍フィリピンルソン島リンガエン湾上陸した戦車第2師団機動砲兵第2連隊配備された4門のホニIは、この上陸してきた米軍迎撃した。 ウミガン、ルパオで迎撃当たった本車は、あらかじめ各所戦車壕を掘ってその中に待機、砲のみを出した上で敵を引きつけた。米軍戦車前面配置したうえで歩兵とともに前進、これを日本軍歩兵主体として防戦したものの、戦力の差は激しく後退強いられた歩兵部隊自走砲より後方へ下がることも多かったホニIは壕の中で待機し十分に敵を引きつけたうえで連続射撃開始した突如として砲撃受けた米軍にとり、本車位置特定して素早く反撃するのは難しく、この隙にホニIは次の壕へと素早く移動した引きつける段階位置暴露されれば撃破はまぬがれないが、ノモンハン生き残り優秀な部隊幹部による遮蔽擬装完璧であった米軍装備していたM4中戦車に対して待ち伏せ攻撃加え射距離500m程度から正面装甲貫徹し撃破している。こうして機動砲兵第2連隊ホニI4門は米軍反撃回避し連日数百発の砲撃加えて損害与え戦闘続けた機動砲兵第2連隊ホニIに搭乗していた朝井博一は、「この移動トーチカ作戦で、米軍戦車兵員輸送六輪トラック数多く破壊し多大戦果をあげることができた。兵員輸送トラック榴弾命中しその瞬間米兵たちが空に飛ぶのを見ると、つい喝采叫んでいたが、敵とはいえ尊い人命散華していたことに気付かなかった」と記している。 しかし、サンマヌエル、ムニオス、サンイシドロ繰り広げられ戦闘により、戦車第6、第7、第10連隊基幹とする戦車第2師団主力1月中には壊滅状態となった戦車部隊壊滅受けて機動砲兵第2連隊ホニI4門はサンタフェ後退した。ここでの機動砲兵第2連隊イムガン峠に壕を設営し日没後にイムガン峠の射撃陣地進出すると、そこからサラクサク峠に展開する米軍砲撃払暁サンタフェ後退する戦術をとった。イムガン峠の道が米軍砲撃により破壊されると、機動砲兵第2連隊はアリタオの密林に陣を設営サンタフェ射撃陣地構築し夜間砲撃行った。この砲撃阻止するために、米軍戦爆各1個連隊級の航空機投入連日捜索当たった発見することはできなかった。機動砲兵第2連隊夜間後方陣地後退していたためである。また移動際し4門のホニIは樹枝牽引履帯走行痕跡を隠した戦後米軍はこの運用賞賛している。 3月31日制圧射撃では15cm榴弾砲3門、機動九〇式野砲2門、ホニI4門が参加一千発の砲弾撃ち込んだ。この砲撃歩兵夜襲によって、米軍32師団はサラクサク峠前面の天王山から退却余儀なくされた。 寡兵戦闘続けていた戦車第2師団であるが、4月18日陣地偵察行っていた松岡連隊長負傷、後に戦死25日には寺尾大隊長戦死した。さらに26日ボネ配置されていたホニI2門が敵機発見された。砲爆撃受けて渡辺中隊長ほか数十名が戦死横穴壕が崩され、1門が埋没した 残余ホニIは戦車撃滅隊に配属された。5月28日大隊副官務め小牧少尉以下の2門はアリタオ付近で砲爆撃を受け、大破炎上した天城大尉指揮する最後ホニIは6月3日バンバン南方にあるジャンクション撃破された。機動砲兵第2連隊は、敵の圧倒的優勢制空権喪失という状況下において6カ月間、戦闘継続した連隊は1,279名から構成されていた。うち戦死1,087名、生還192名、損耗率は約85%である。

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フィリピン防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:10 UTC 版)

アメリカ極東陸軍」の記事における「フィリピン防衛戦」の解説

フィリピンの戦い (1941-1942年)」も参照 結局のところ、米極東陸軍は、十分な戦力整備終わらないままで1941年12月8日太平洋戦争勃発迎えた例えば、フィリピン師団改編用の第34歩兵連隊は、まさに12月8日フィリピン向けて出港予定準備中であったフィリピン陸軍の各師団動員状態は2/3進行した程度で、動員済み部隊装備訓練不完全だった駐留アメリカ陸軍兵力31,000人(うちフィリピン・スカウト12,000人)、フィリピン陸軍兵力は約10万であった。(詳細は#戦力の実態にて後述) それでも、マッカーサー事態楽観視していた。従来マニラ湾バターン半島への籠城作戦変更しフィリピン全島防衛航空戦力による積極作戦指示した11月4日にはマッカーサー防衛計画に基づき北部ルソン部隊南部ルソン部隊、ビサヤ・ミンダナオ部隊などの作戦区分が正式発令された。この区分沿って米極東陸軍フィリピンの戦い戦ったが、兵力物資分散招いたこともあって敗北喫することになった1月30日フィリピン駐留アメリカ海軍部隊も、極東陸軍司令部指揮下に編入された。 バターン半島コレヒドール島要塞米極東陸軍部隊追いつめられる中、1942年3月12日マッカーサーコレヒドール島魚雷艇脱出したマッカーサー脱出先のオーストラリア引き続き極東陸軍司令官として作戦指揮執るつもりで、コレヒドール島残され司令部要員前進指揮所構成させ、補給物資受け入れなどで連携させよう考えていた。しかし、マッカーサー意図知らない国防省陸軍参謀本部は、現地ジョナサン・ウェインライト少将中将に昇進させて極東陸軍司令官として扱い3月20日新たな司令部である在フィリピンアメリカ軍司令部 (U.S. Forces in the Philippines, USFIP) の司令官任命した指揮下の全部隊が、USFIPに引き継がれた。3月21日至ってマッカーサー初め参謀本部連絡行ったが、参謀本部は、遠距離指揮の困難や指揮系統複雑化理由ウェインライトとの交代という方針変えなかった。4月18日に、マッカーサー連合国南西太平洋方面総司令官転じて米極東陸軍は完全に活動停止態となった。 後継となったウェインライトのUSFIPも、5月6日降伏日本軍申し入れてコレヒドール要塞開城フィリピン全土残存部隊に降伏命令発して、その任務終えた。なお、これより先4月9日バターン半島投降した将兵は、バターン死の行進経験している。

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