フィリピン防衛戦
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「四式十五糎自走砲」の記事における「フィリピン防衛戦」の解説
第1自走砲中隊は早急にフィリピンへ送られることとなり、1944年12月22日、ヒ85船団加入の輸送船「青葉山丸」に乗ってルソン島へ向け出発した。「青葉山丸」は12月30日にルソン島サンフェルナンドでの揚陸作業中にアメリカ軍機による空襲を受け、被弾沈没。中隊はホロ1輌と多くの装備品を失ってしまった。なんとか揚陸できたホロ2輌と中隊は、第14方面軍直轄の第14方面軍仮編自走砲中隊(鷲見隊)として再編成され、同地の独立戦車第8中隊(新砲塔チハ装備)と共にクラーク地区で飛行場防衛任務に就いた。 独立戦車第8中隊はクラークフィールド飛行場を守備し、自走砲中隊は隣接するクラークマルコット飛行場を防衛するよう命令された。鷲見中隊は途中空襲にあって被害を出したが、1945年(昭和20年)1月20日頃に現地へ到着し、警備を開始した。自走砲中隊のホロ2輌は飛行場に近い二の谷(一の谷から六の谷まであった)に段列を配置、ここを陣地として飛行場を守備した。段列は空襲による損害を受けておらず、弾薬は豊富であった。第2分隊と第3分隊から成る2輌のホロは、連日陣地から飛行場へ出撃し砲撃を行った。 1月27日、M4中戦車との対戦車戦闘が発生した。激しい砲爆撃の状況で、飛行場は爆煙と吹き上げる土砂に覆われ非常に視界が悪かった。このため自走砲は200mから300mという至近距離での各個戦闘を余儀なくされた。2輌のホロは砲撃の後に数分で陣地変換し、すぐさま砲撃に移るという機動戦闘を行った。弾種は榴弾であるが、1945年3月20日付けの「敵軍戦法情報」によれば、野戦重砲の榴弾が敵戦車に命中した場合「必ズ炎上ス」としている。この戦闘でアメリカ軍の攻撃を撃退したが、鷲見中隊長が胸部を負傷、ほか5名が負傷して中隊の戦力は低下した。 1月29日午後2時、アメリカ軍は独立戦車第8中隊に対して攻撃発起した。自走砲中隊は守備の援護射撃を命令されたが、戦場は砲爆撃により錯綜、さらに敵観測機が警戒している状況であった。ホロは爆煙の中で100mから200mほど頻繁に位置を変える機動戦闘を行った。砲煙をすかしての対戦車戦闘の結果、敵戦車7両の撃破が確認された。これは独立戦車第8中隊との共同戦果であった。同日午後6時頃、陣地への後退を決意した第2分隊のホロはM4中戦車3両と遭遇したが、ホロはエンジンを止めており、M4中戦車はその存在に気が付いていなかった。乗員は進退をどうするべきか決めかねていたが、やがてM4中戦車は自走砲の方へと進みはじめ、これを見た第2分隊のホロは2発を発砲。全速力で路上を突破した。暗闇に助けられM4中戦車から直撃は受けなかったものの、榴弾の破片により指揮官小幡少尉が戦死、安藤曹長が重傷を負い、弾薬手2人と操縦手も負傷した。この日の戦闘でアメリカ軍はマルコット飛行場を占領した。中隊は三の谷と四の谷へ後退し、戦闘を継続した。 2月8日、マルコット飛行場から敵戦車が二の谷を攻撃。迎撃のため第2分隊のホロが出撃したが、谷間を移動するホロは山上からのM2重機関銃による集中射撃を受け、乗員4名戦死。ホロは大破炎上した。残った第3分隊のホロは3月初旬ごろ、M4中戦車との対戦車戦闘において撃破された。部隊残余は歩兵として終戦まで山岳地帯で戦った。
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フィリピン防衛戦
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1945年(昭和20年)1月8日、アメリカ軍はフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸した。戦車第2師団の機動砲兵第2連隊に配備された4門のホニIは、この上陸してきた米軍を迎撃した。 ウミガン、ルパオで迎撃に当たった本車は、あらかじめ各所に戦車壕を掘ってその中に待機、砲のみを出した上で敵を引きつけた。米軍は戦車を前面に配置したうえで歩兵とともに前進、これを日本軍は歩兵を主体として防戦したものの、戦力の差は激しく後退を強いられた。歩兵部隊は自走砲より後方へ下がることも多かった。ホニIは壕の中で待機し、十分に敵を引きつけたうえで連続射撃を開始した。突如として砲撃を受けた米軍にとり、本車の位置を特定して素早く反撃するのは難しく、この隙にホニIは次の壕へと素早く移動した。引きつける段階で位置が暴露されれば撃破はまぬがれないが、ノモンハン戦生き残りの優秀な部隊・幹部による遮蔽・擬装は完璧であった。米軍の装備していたM4中戦車に対しても待ち伏せ攻撃を加え、射距離500m程度から正面装甲を貫徹し撃破している。こうして機動砲兵第2連隊のホニI4門は米軍の反撃を回避し、連日数百発の砲撃を加えて損害を与え戦闘を続けた。 機動砲兵第2連隊でホニIに搭乗していた朝井博一は、「この移動トーチカ作戦で、米軍戦車や兵員輸送の六輪トラックを数多く破壊し、多大の戦果をあげることができた。兵員輸送のトラックに榴弾が命中し、その瞬間、米兵たちが空に飛ぶのを見ると、つい喝采を叫んでいたが、敵とはいえ尊い人命が散華していたことに気付かなかった」と記している。 しかし、サンマヌエル、ムニオス、サンイシドロで繰り広げられた戦闘により、戦車第6、第7、第10連隊を基幹とする戦車第2師団主力は1月中には壊滅状態となった。戦車部隊の壊滅を受けて機動砲兵第2連隊のホニI4門はサンタフェへ後退した。ここでの機動砲兵第2連隊はイムガン峠に壕を設営し、日没後にイムガン峠の射撃陣地へ進出すると、そこからサラクサク峠に展開する米軍を砲撃、払暁にサンタフェへ後退する戦術をとった。イムガン峠の道が米軍の砲撃により破壊されると、機動砲兵第2連隊はアリタオの密林に陣を設営、サンタフェに射撃陣地を構築し夜間砲撃を行った。この砲撃を阻止するために、米軍は戦爆各1個連隊級の航空機を投入、連日捜索に当たったが発見することはできなかった。機動砲兵第2連隊が夜間に後方陣地へ後退していたためである。また移動に際し4門のホニIは樹枝を牽引、履帯の走行痕跡を隠した。戦後米軍はこの運用を賞賛している。 3月31日の制圧射撃では15cm榴弾砲3門、機動九〇式野砲2門、ホニI4門が参加、一千発の砲弾を撃ち込んだ。この砲撃と歩兵の夜襲によって、米軍第32師団はサラクサク峠前面の天王山から退却を余儀なくされた。 寡兵で戦闘を続けていた戦車第2師団であるが、4月18日に陣地偵察を行っていた松岡連隊長が負傷、後に戦死。25日には寺尾大隊長が戦死した。さらに26日、ボネに配置されていたホニI2門が敵機に発見された。砲爆撃を受けて渡辺中隊長ほか数十名が戦死、横穴壕が崩され、1門が埋没した 残余のホニIは戦車撃滅隊に配属された。5月28日、大隊副官を務める小牧少尉以下の2門はアリタオ付近で砲爆撃を受け、大破炎上した。天城大尉の指揮する最後のホニIは6月3日、バンバン南方にあるジャンクションで撃破された。機動砲兵第2連隊は、敵の圧倒的優勢と制空権の喪失という状況下において6カ月間、戦闘を継続した。連隊は1,279名から構成されていた。うち戦死1,087名、生還は192名、損耗率は約85%である。
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フィリピン防衛戦
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「アメリカ極東陸軍」の記事における「フィリピン防衛戦」の解説
「フィリピンの戦い (1941-1942年)」も参照 結局のところ、米極東陸軍は、十分な戦力整備が終わらないままで1941年12月8日の太平洋戦争勃発を迎えた。例えば、フィリピン師団改編用の第34歩兵連隊は、まさに12月8日にフィリピンへ向けて出港予定で準備中であった。フィリピン陸軍の各師団の動員状態は2/3が進行した程度で、動員済みの部隊も装備や訓練は不完全だった。駐留アメリカ陸軍の兵力は31,000人(うちフィリピン・スカウト12,000人)、フィリピン陸軍の兵力は約10万人であった。(詳細は#戦力の実態にて後述) それでも、マッカーサーは事態を楽観視していた。従来のマニラ湾・バターン半島への籠城作戦を変更し、フィリピン全島の防衛と航空戦力による積極作戦を指示した。11月4日にはマッカーサーの防衛計画に基づき、北部ルソン部隊、南部ルソン部隊、ビサヤ・ミンダナオ部隊などの作戦区分が正式発令された。この区分に沿って米極東陸軍はフィリピンの戦いを戦ったが、兵力や物資の分散を招いたこともあって敗北を喫することになった。 1月30日、フィリピン駐留のアメリカ海軍部隊も、極東陸軍司令部の指揮下に編入された。 バターン半島とコレヒドール島要塞の米極東陸軍部隊が追いつめられる中、1942年3月12日にマッカーサーはコレヒドール島を魚雷艇で脱出した。マッカーサーは脱出先のオーストラリアで引き続き極東陸軍司令官として作戦指揮を執るつもりで、コレヒドール島に残された司令部要員に前進指揮所を構成させ、補給物資の受け入れなどで連携させようと考えていた。しかし、マッカーサーの意図を知らない国防省や陸軍参謀本部は、現地のジョナサン・ウェインライト少将を中将に昇進させて極東陸軍司令官として扱い、3月20日に新たな司令部である在フィリピンアメリカ軍司令部 (U.S. Forces in the Philippines, USFIP) の司令官に任命した。指揮下の全部隊が、USFIPに引き継がれた。3月21日に至ってマッカーサーは初めて参謀本部に連絡を行ったが、参謀本部は、遠距離指揮の困難や指揮系統の複雑化を理由にウェインライトとの交代という方針を変えなかった。4月18日に、マッカーサーが連合国南西太平洋方面総司令官に転じて、米極東陸軍は完全に活動停止状態となった。 後継となったウェインライトのUSFIPも、5月6日に降伏を日本軍に申し入れて、コレヒドール要塞を開城。フィリピン全土の残存部隊に降伏命令を発して、その任務を終えた。なお、これより先4月9日にバターン半島で投降した将兵は、バターン死の行進を経験している。
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