軍用船としてとは? わかりやすく解説

軍用船として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 10:17 UTC 版)

瑞穂丸」の記事における「軍用船として」の解説

1937年昭和12年7月日中戦争勃発すると、「瑞穂丸」は日本陸軍によって徴用され、病院船改装された。中国戦線傷病兵後送するのが主任務で、1939年昭和14年10月までに上海大連羅津から宇品大阪38航海し傷病兵24,000人を運んだ戦闘部隊輸送にも使われた。 その後太平洋戦争開戦までに「瑞穂丸」は軍隊輸送船用途変更された。開戦時にはフィリピン攻略のため、1941年昭和16年12月22日リンガエン湾の上作戦参加蘭印作戦でも、1942年昭和17年2月28日ジャワ島西部バンタム湾(英語版上陸作戦参加した1942年10月29日付けで、日本陸軍省から外務省に対して、「瑞穂丸」「さいべりや丸」「湖北丸」の3隻について戦時国際法に基づく病院船であることを、交戦相手国宛通知するよう依頼がされた。そして、スペインなど中立国所在在外公館通じてアメリカイギリスなどに対して通知実施されている。 野間2002年によれば、「瑞穂丸」は1942年昭和17年)から1943年昭和18年)にかけて、ラバウルハルマヘラ島方面輸送任務に就いていた。他方戦後厚生省援護局がまとめた『陸軍傭船行動調書によれば1942年後半は主に門司宇品基隆大連上海青島など中国各地往復していたほか、同年9月10月マニラシンガポールへも赴いている。1943年3月から9月には、パラオニューブリテン島ラバウルココポ方面でも行動した。『陸軍傭船行動調書によればハルマヘラ島への航海1944年1月から2月にかけて行った1944年中頃フィリピン防衛戦備えた増援部隊の派遣盛んになると、「瑞穂丸」も軍隊輸送船としてフィリピン方面への輸送投入された。『陸軍傭船行動調書によれば1944年4月21日から6月8日大阪マニラ往復同年6月15日から8月15日にも大阪発・宇品帰着マニラとの間を無事に往復している。しかし、後述のとおり、「瑞穂丸」は、1944年9月21日3回目フィリピン行き途中でアメリカ軍潜水艦攻撃受けて沈没した

※この「軍用船として」の解説は、「瑞穂丸」の解説の一部です。
「軍用船として」を含む「瑞穂丸」の記事については、「瑞穂丸」の概要を参照ください。

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