軍用船として
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1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発すると、「瑞穂丸」は日本陸軍によって徴用され、病院船に改装された。中国戦線の傷病兵を後送するのが主任務で、1939年(昭和14年)10月までに上海・大連・羅津から宇品・大阪へ38航海し、傷病兵約24,000人を運んだ。戦闘部隊の輸送にも使われた。 その後、太平洋戦争開戦までに「瑞穂丸」は軍隊輸送船に用途変更された。開戦時にはフィリピン攻略のため、1941年(昭和16年)12月22日にリンガエン湾での上陸作戦に参加。蘭印作戦でも、1942年(昭和17年)2月28日のジャワ島西部バンタム湾(英語版)上陸作戦に参加した。 1942年10月29日付けで、日本の陸軍省から外務省に対して、「瑞穂丸」「さいべりや丸」「湖北丸」の3隻について戦時国際法に基づく病院船であることを、交戦相手国宛に通知するよう依頼がされた。そして、スペインなど中立国所在の在外公館を通じて、アメリカやイギリスなどに対して通知が実施されている。 野間(2002年)によれば、「瑞穂丸」は1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、ラバウルやハルマヘラ島方面の輸送任務に就いていた。他方、戦後に厚生省援護局がまとめた『陸軍徴傭船舶行動調書』によれば、1942年後半は主に門司・宇品と基隆・大連・上海・青島など中国各地を往復していたほか、同年9月と10月にマニラやシンガポールへも赴いている。1943年3月から9月には、パラオやニューブリテン島のラバウル、ココポ方面でも行動した。『陸軍徴傭船舶行動調書』によれば、ハルマヘラ島への航海は1944年1月から2月にかけて行った。 1944年中頃、フィリピン防衛戦に備えた増援部隊の派遣が盛んになると、「瑞穂丸」も軍隊輸送船としてフィリピン方面への輸送に投入された。『陸軍徴傭船舶行動調書』によれば、1944年4月21日から6月8日に大阪とマニラを往復、同年6月15日から8月15日にも大阪発・宇品帰着でマニラとの間を無事に往復している。しかし、後述のとおり、「瑞穂丸」は、1944年9月21日、3回目のフィリピン行きの途中でアメリカ軍潜水艦の攻撃を受けて沈没した。
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