陸軍船としての運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:58 UTC 版)
完成した「宇品丸」は、陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に上陸戦用の工兵部隊の訓練などに従事した。海軍と協力して行われた1929年の特別工兵演習では、給油艦「鳴戸」・給糧艦「間宮」・徴用輸送船3隻とともに第一水雷戦隊の護衛下で船団を組み、第5師団と第18師団工兵による模擬上陸作戦を実施している。1934年(昭和9年)の陸海軍連合演習や1936年(昭和11年)の特別大演習でも輸送船役として計画書に船名が挙がっている。 訓練以外には戦線後方を中心として軍需輸送に使用された。例えば満州事変中の1932年(昭和7年)3月には、第2師団の一部2500人を「相田丸」とともに新潟港から大連市へ輸送した。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、南京市・上海市・下関港・大阪港を結ぶ定期軍需輸送に従事した。1941年(昭和16年)の南部仏印進駐では、飛行場設定隊の揚陸を担当した。 1941年末の太平洋戦争開始後は主に瀬戸内海にとどまって、陸軍船舶兵の訓練に従事している。輸送任務では、1942年(昭和17年)12月3日に門司発の部隊輸送で、高雄港と馬公を経由して、21日にマニラへ到着。日本の戦況が悪化した1944年(昭和19年)には沖縄・台湾方面への増援部隊輸送に投入され、7月13日に門司発・鹿児島湾経由・那覇港行きの護送船団に加入して22日到着。8月17日に鹿児島発のカナ717船団に加入して19日に那覇到着。12月9日に鹿児島発のカタ609船団に加入して、那覇経由で16日に基隆港へ到着したことが確認できる。また、『陸軍徴傭船舶行動調書』によれば、1944年7月から1945年7月まで、日本本土の門司・博多港・敦賀港等と朝鮮半島の釜山港・羅津・清津等の間をたびたび航海している。 本船の軍用船として最後の任務となったのは、1945年(昭和20年)の日本海での食糧輸送だった。日号作戦で大陸方面からの食糧輸送が全力で進められる中、「宇品丸」も羅津から新潟への穀物輸送航海に出た。しかし、7月6日、新潟沖でアメリカ軍の飢餓作戦により敷設されていた機雷に接触し、2番船倉に浸水、沈没を避けるため信濃川河口へ自ら擱座した。8月10日、新潟市はアメリカ海軍機動部隊から発進したF6F戦闘機16機による空襲を受け、「宇品丸」も攻撃目標となった。「宇品丸」は高射砲・機関銃合わせて6門で応戦してアメリカ軍機1機を撃墜したものの、被弾炎上してしまう。船員約50人・船砲隊等約100人が乗船していたうち、船員3人・兵員16人が戦死した。
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