太平洋戦争開始後
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1941年(康徳8年)12月の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後、関東軍は続々と南方に引き抜かれ弱体化していった。それに反比例して、満洲国軍の規模は拡大していった。1944年(康徳11年)には、鉄道警護隊が編入されて鉄道警護軍に改称された。 1945年(康徳12年)4月には、軍事部顧問による蒙古軍以外の騎兵隊を歩兵に改め、31個の工兵隊と17個の自動車隊を新設する、機関銃・大砲などの重火器を関東軍に引き渡す、通信権を剥奪するといった改革案が提出されたが、満洲国軍を本格的に関東軍の補助戦力に位置づけるものだった。6月には、軍事部大臣邢士廉から、各軍管区を関東軍の各方面軍の指揮下に置く命令が出された。解散直前の段階で、満洲国軍の総兵力は「満洲国陸軍指導要綱」の6万人を2倍以上超える15万人にまで膨れ上がっていた。
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太平洋戦争開始後
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1937年からの日中戦争中にも発展を続けた朝鮮の競馬ではあるが1941年末に始まった太平洋戦争では縮小を余儀なくされる。1942年2月、朝鮮馬事会令により競馬を開催していた9つの競馬倶楽部は解散させられ単一の競馬施行団体朝鮮馬事会にまとめられ9つの競馬場の経営に当たる。朝鮮の競馬は戦争の影響を受け、また競走馬の多くを軍馬として供出させられ、競馬興業は不振になる。小規模な競馬場である群山、新義州、咸興、清津、雄基の5競馬場は順に閉鎖されて跡地は軍用地になる。1945年春には朝鮮の競馬場は京城(ソウル)、平壌、大邱、釜山の4つになる。しかしこれも日本の敗戦によって日本人の手を離れ、日本統治下の競馬は終了する。
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