太平洋戦争開戦から終戦
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筑波空で教員生活を送っていた1941年(昭和16年)12月太平洋戦争が勃発。 岩井は大村空での勤務を経て、1942年(昭和17年)11月、空母瑞鳳戦闘機隊に転属する。1943年(昭和18年)1月、瑞鳳は呉を出港、トラック島に進出しガダルカナル撤退作戦の間接掩護に従事。2月19日、ニューギニアのウェワクに進出し陸軍輸送船団の護衛任務に着く。 3月3日、P-38と初めて遭遇しこれを撃墜。 4月2日、い号作戦のためラバウルに進出しガダルカナル島、ポートモレスビー、オロ湾、ラビへの攻撃に参加する。4月16日、い号作戦は終了し内地へ帰還するが、7月には再びトラック島に戻り、基地訓練や味方輸送船の上空哨戒に従事する。 10月、ろ号作戦のため各隊は「11月1日をもってラバウルに進出せよ」との命令を受けるが、岩井は不慮の事故による負傷で入院を余儀なくされ、11月5日(第1次)から11日(3次)までのブーゲンビル島沖航空戦に出撃できなかった。(この戦いにおいて味方航空隊は搭乗員の約半数を失った)12月、瑞鳳は内地へ帰港。 1944年(昭和19年)1月、台南海軍航空隊へ転勤となり13期予備学生の教育にあたる。 岩井の戦歴を知るとともに高度な操縦技術を目の当たりにした学生たちの間で『ゼロファイターゴッド』と呼ばれていた。 1944年(昭和19年)8月、第六〇一海軍航空隊に転属。 10月18日、瑞鶴に着艦。20日、瑞鶴は第三艦隊(小沢治三郎中将が指揮する囮部隊)の旗艦として、フィリピン北東へ進出(レイテ沖海戦) 24日、敵機動部隊を攻撃すべく瑞鶴より出撃する。発艦して約1時間が経過したころ突然、グラマンF6F編隊の奇襲を受けるが辛うじてこれを回避。帰艦すべく母艦を探すが発見できず、ルソン島のアパリ飛行場に不時着する。(岩井の他にも26機が不時着していたが稼動機は岩井機を含め15機のみ) 25日、米軍機編隊からの攻撃を受け第三艦隊は瑞鶴を含むすべての空母を撃沈される。 詳細は「レイテ沖海戦#10月25日 エンガノ岬沖海戦」を参照 帰る部隊を失った岩井ら母艦搭乗員は、アパリからツゲガラオ、ニコルス、バンバンと移動するが、どこに行っても余所者扱いの上、連日に渡り、少数での無謀な出撃を強いられた。11月1日、突然、岩井ら601空隊員3名に内地への帰還命令が出る。しかしそれは「マニラまで行って内地行きの便をつかまえて帰れ、飛行機はおいて行け」という無茶な内容であったが、岩井らは内地へ帰りたい一心で歩き続け、なんとか陸軍重爆機に便乗して内地に帰還した。 1944年(昭和19年)12月、岩井ら戦闘機隊は岩国基地へ移動となる。 1945年(昭和20年)2月、一航戦の解隊により六〇一空は第三航空艦隊に編入され、戦闘第310飛行隊、攻撃第1飛行隊、攻撃第254飛行隊の三個編成となる。(岩井は戦闘第310飛行隊に所属、隊長は香取穎男大尉) 2月14日、六〇一空所属飛行隊、稼働可能全機に香取基地進出命令が下る。 しかし命令を受けた香取隊長は分解整備中の零戦が2機あり、また、盲腸手術直後の茂木中尉もいることから岩井に分解整備完了次第、茂木中尉と共に、後から来るよう命令する。 2月16日、戦闘310飛行隊、20機は香取基地へ出発。 2月21日、六〇一空は硫黄島への特攻隊(第二御盾隊)として、中継基地の八丈島飛行場へ出発。 岩井が岩国基地から整備完了後の零戦にて、香取基地に到着した時にはすでに部隊は硫黄島へ突入を開始したあとだった。 1945年(昭和20年)4月6日、この日から菊水作戦が開始される。岩井は特攻隊支援ため、制空、前路掃討に従事する。 4月17日、稼動機を使い果たした六〇一空は、この日の出撃をもって菊水作戦から離脱、関東防空に専念することとなり、百里原へ引き揚げる。 4月20日、軍医長から肺浸潤にかかっていることをつげられ、霞ヶ浦海軍病院(現、霞ヶ浦医療センター)へ入院となり、療養中の、8月15日に終戦を迎える。 最後の飛行は教員時代に乗り慣れた九三式中等練習機だった。 終戦時、撃墜数22機、飛行時間2200時間、飛行回数3200回、着艦回数75回。 そしてこれだけの激戦に参加しながら被弾数はゼロであった。
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