エンガノ岬沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 18:37 UTC 版)
詳細は「レイテ沖海戦」を参照 10月上旬、アメリカ軍はフィリピン方面に上陸を開始し、フィリピンの戦い (1944-1945年)が始まった。10月10日、沖縄大空襲(十・十空襲)により被害を受けた基地航空隊を補強するため、連合艦隊司令部は小沢機動部隊の航空兵力(653空・634空)を陸上基地に派遣するよう命じた。「空母に搭載する航空戦力が無くなってしまう」という小沢長官の抗議に対し草鹿龍之介連合艦隊参謀長は「今度の作戦に空母は使わない」と返答するも、17日になって機動部隊に対しレイテ方面への出撃準備を命じる。20日、豊田副武連合艦隊司令長官は正式に捷号作戦を発令した。小沢機動部隊にはルソン島東方海面に進出し、アメリカ軍機動部隊を北方に誘致させて遊撃部隊(栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊)のレイテ湾突入の猶予を稼ぐ、囮任務が与えられた。小沢機動部隊は第三航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、第四航空戦隊(伊勢、日向)、第31戦隊、第61駆逐隊、第41駆逐隊等で構成されていた。20日に収容された瑞鳳の搭載機は、零戦8、戦爆4、天山4(6機とも)の16機、艦隊全体としては100機程度であった。22日、瑞鳳は軽巡洋艦多摩と駆逐艦桐に燃料補給を行った。10月23-24日、レイテ湾に突入予定の第一遊撃部隊(栗田艦隊)は米潜水艦の襲撃や機動部隊艦載機の空襲により、旗艦であった重巡洋艦愛宕や戦艦武蔵などを失った。同日、小沢機動部隊は58機(瑞鳳零戦8、爆戦4、天山2、もしくは零戦8、天山4、爆戦2)の攻撃隊を発進させる。戦果は無かったが、この攻撃によりウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将は小沢機動部隊の存在を知り、同艦隊こそ日本艦隊の主力と誤判断すると、第38任務部隊を率いて北方への進撃を開始した。なお、小沢機動部隊各艦には報道班員が乗艦しており、瑞鳳には竹内宏一カメラマンが乗艦していた。竹内カメラマンが瑞鳳艦上で撮影した映像は昭和19年11月9日封切「日本ニュース・第232号(比島沖決戦)」として一般公開された。航空機搭乗員に訓示する将校は瑞鳳の杉浦艦長で、被弾した瑞鳳の飛行甲板の様子も撮影されている。 10月25日、小沢司令長官は残存29機のうち零戦19機を直衛機として残し、10機は索敵任務後に陸上基地へ向かうよう命じた。艦隊は対空戦闘に備え陣形を変更、小沢機動部隊の空母は瑞鶴、瑞鳳と千歳、千代田の二部隊に別れ、それぞれが輪形陣を組んでいた。瑞鳳は旗艦瑞鶴の左真横2kmに配置、輪形陣先頭を軽巡洋艦大淀、最後尾を戦艦伊勢が航行し、瑞鳳の左舷を駆逐艦秋月、桑、瑞鶴の右舷を駆逐艦初月、若月が護衛していた。空襲直前、瑞鶴所属の天山1機がエンジン故障のため瑞鳳に緊急着艦する。艦内に収容する余裕もなく、同機は飛行甲板最後尾にワイヤーで固定された。 8時15-20分より第一次対空戦闘がはじまった。8時35分に爆弾1発が瑞鳳の後部エレベーターに命中、直接操舵に切り換えた。火災も発生するが約10分で鎮火に成功した。先の天山は被弾時の爆発にも無傷で残り乗組員たちの士気を高めたが、更なる空襲が予想されるため残してほしいという乗組員たちの懇願にもかかわらず海中投棄された。他艦は、8時56分に瑞鳳の左前方を航行する駆逐艦秋月が大爆発を起こし轟沈した。瑞鶴は左舷後部に魚雷1本が命中して2軸運転となり通信能力を喪失、千歳は9時37分に沈没、多摩は被雷落伍、千代田は被弾損傷という被害を出している。10時以降の第二次対空戦闘では、千代田が炎上、五十鈴と共に落伍した。空襲後の午前11時前後、小沢司令長官は瑞鶴から大淀に移乗した。13時から開始された第三次対空戦闘では上空直衛の零戦は既に燃料切れで着水していた事もあり、瑞鶴と瑞鳳はアメリカ軍機の集中攻撃を受けた。13時17分、右舷後部に魚雷1本が命中、最大発揮速力12ノットとなる。さらに爆弾2発も命中して右傾斜7度となった。舵は故障して人力操舵となり、機関室にも浸水がはじまった。14時14分、瑞鶴が沈没した。 同時刻、最大発揮速力6ノットに低下していた瑞鳳は回避運動もままならないまま集中攻撃を受け続け、右舷に複数の魚雷が命中し完全に航行不能となった。また艦の傾斜も増大した。ここに至り、機密書類の処分や御真影(昭和天皇の写真)の移動等、艦長は沈没に備えた処置を命じる。負傷者はカッターボートに収容されて脱出、大淀より瑞鳳直衛を命じられていた桑に救助されていった。軍艦旗降下の後、総員退艦が命令される。 15時27分(桑記録15時28分)、艦尾から沈み始めていた瑞鳳は右舷艦橋下部に魚雷を受け艦中央部より分断され、沈没した。駆逐艦桑に艦長以下847名が救助された。竹内カメラマンも桑に救助され、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功した。また15時20分以降、対空戦闘継続中にもかかわらず伊勢は洋上に停止して人員救助を開始し、瑞鳳の乗員98名を救助した。沈没時、瑞鳳には準士官以上65名・下士官兵909名・傭人3名・計977名が乗艦。このうち、准士官以上7名(副長含)・下士官兵208名・傭人1名が戦死、准士官以上58名(負傷8)・下士官兵701名(負傷122)・傭人2(負傷1)・計761名(負傷131)が生還したという(乗員、生存者、戦死者に653空の将兵は含まず)。 なお、瑞鳳の沈没後も戦闘は続き、空母千代田と駆逐艦初月が追撃するアメリカ軍機動部隊(巡洋艦戦隊)に捕捉され、砲戦の後に撃沈された。初月の乗組員の他、救助された航空機搭乗員や沈没艦乗組員も大多数が戦死した。単艦で避退中の軽巡洋艦多摩も、アメリカの潜水艦ジャラオ(USS Jallao, SS-368) の雷撃で撃沈され、こちらも全員が戦死した。10月26日、沖縄中城湾にて桑は五十鈴及び槇に瑞鳳乗員を移乗させ、瑞鳳の戦死者2名を荼毘に付したという。各艦に便乗した生存者はその後、日本本土に送り届けられた。
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