フィリピン戦線とは? わかりやすく解説

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フィリピン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:25 UTC 版)

インディペンデンス (CVL-22)」の記事における「フィリピン戦線」の解説

十・十空襲」および「台湾沖航空戦」も参照 9月第38任務部隊フィリピン侵攻向けて連日攻撃行ったインディペンデンス搭載の第41夜間軽空母飛行群は、9月12日夜にサマール島上空一〇〇式司令部偵察機撃墜して、初めての夜間戦闘戦果挙げたこの期間に日本軍本格的な反撃はなかったため、インディペンデンス夜間の作戦活動から昼間作戦活動も行うようになり、ルソン島日本軍拠点攻撃した第38任務部隊10月初旬ウルシー泊地補給受けた後、10月6日沖縄攻撃向けて出撃した。第38任務部隊沖縄台湾フィリピンに対して攻撃行った日本軍航空反撃インディペンデンス艦載機等による昼間攻撃および夜間偵察攻撃によって撃退された。特に、夜間での戦果夜間戦闘機対す評価高め結果となったアメリカ軍空母機動部隊10月23日フィリピンから東に向けて出航した。後にロバート・カーニー提督が「壮大な規模の何かが進行中だった」と回想したように、アメリカ軍攻勢明白なであったジェラルド・F・ボーガン英語版少将指揮下の第38.2任務群に属すインディペンデンス飛行群10月24日シブヤン海海戦で、栗田艦隊に対して攻撃開始するハルゼー部隊攻撃隊は戦艦武蔵撃沈し重巡妙高落伍し反転、ほかに数隻に損害与えた栗田艦隊進撃をやめて、西方退却したハルゼー部隊パイロット過大な戦果報告おこないハルゼー大将は「栗田艦隊無力化された」と判断した。そこで当面撃破目標を、北に発見した第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将率い第三艦隊定め高速戦艦巡洋艦駆逐艦構成され特別編成の第34任務部隊ウィリス・A・リー中将)および3個任務群を小沢機動部隊撃滅急行させて、サンベルナルジノ海峡がら空きにした。この時、インディペンデンス夜間探索機は再び東航する栗田艦隊発見し、さらにここ数日間点灯していなかったサンベルナルジノ海峡灯台煌々と点灯されているのを発見報告受けたボーガン少将ハルゼー大将報告しようとしたが、ハルゼー大将幕僚もこの報告受信しており、幕僚ボーガン少将に「もう知っている」と返事した一方インディペンデンス夜間索敵機(アヴェンジャー)は小沢機動部隊触接続けた第38任務部隊25日朝から小沢機動部隊対す攻撃繰り返し小沢機動部隊空母4隻を全て撃沈した両軍戦闘序列)。しかし、その間隙を突いた栗田艦隊サンベルナルジノ海峡突破してサマール島近海クリフトン・スプレイグ少将率い護衛空母艦隊駆逐艦護衛駆逐艦からなる第77.4.3任務群(通称タフィ3」)を攻撃するレイテ湾方面敵勢力は第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将指揮下の砲撃部隊対処できる考えていたハルゼー大将だったが、キンケイド中将泣き言加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受け、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうち高速戦艦軽巡洋艦駆逐艦南下させ、大急ぎ栗田艦隊攻撃行ったレイテ沖海戦アメリカ艦隊多大な戦果挙げ激戦終了同時に日本海軍終焉意味していた。インディペンデンス航空偵察と、フィリピン攻撃を行う第38任務部隊への夜間航空援護継続した。これらの作戦活動インディペンデンス空母部隊前進大きく寄与したインディペンデンスウルシー泊地帰投し、11月9日から14日までの間、遅れた休暇補給を取る。しかしながらすぐにフィリピン沖での夜間攻撃防衛作戦任務に就く。作戦活動1944年12月30日まで継続しこの間コブラ台風遭遇。艦自体大した被害はなかったものの、何名かの乗組員激浪さらわれ行方不明となったその後ウルシー泊地休養の後、この当時夜間戦闘機専用空母となっていたエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) と夜間戦闘機空母部隊組んで出撃した。1945年昭和20年1月3日から9日までルソン島リンガエン湾上陸支援したつづいてカムラン湾潜むとみられた航空戦艦2隻(日向伊勢)を始末するため、ハルゼー大将空母機動部隊南シナ海に向ける(グラティテュード作戦)。インディペンデンスエンタープライズ夜間偵察機航空戦艦2隻の捜索参加した。しかし、第四航空戦隊第二水雷戦隊リンガ泊地移動した後で第38任務部隊台湾インドシナ中国本土日本軍基地攻撃し軽巡洋艦香椎率いヒ86船団全滅させ、ヒ87船団大打撃与えたフィリピンの戦いをめぐるこれらの支援作戦は、この方面での空母夜間活動終了を示すこととなった南シナ海での作戦終えたインディペンデンス1945年昭和20年1月30日修理のため真珠湾向かった

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フィリピン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:47 UTC 版)

戦車第10連隊」の記事における「フィリピン戦線」の解説

1944年昭和19年7月26日動員下令8月13日東安発ち釜山経て門司船団組みルソン島向かい連隊主力サンフェルナンド上陸したこの間に第2中隊乗船津山丸がバシー海峡航行中雷撃により海没、藤崎中尉以下40名を失いサンフェルナンド人員だけを揚陸した第5中隊戦車も、回航していた大敏丸の海没により失われた。そのため、10月中旬マニラ北方のシブルスプリングに集結損失補填連隊再編成が行われた。 そして、内田文夫大尉指揮の第1中隊レイテ島派遣し主力ルソン島にて戦闘準備整えた。 翌1945年昭和20年1月6日リンガエン湾アメリカ軍上陸開始し同月18日連隊主力はサン・ニコルスに展開し迎撃態勢敷いた上陸するアメリカ軍兵力は、3コ師団戦車400輌を数え上陸前艦砲射撃激しさもあり、火力に於ける劣勢如何ともしがたく、2月8日までに全ての戦車破壊された。全ての戦車失った後は徒歩戦闘移り、サラクサク峠でアメリカ軍32歩兵師団迎え撃ったものの5月には壊滅フィリピン出陣した800余名のうち終戦後祖国帰還できた者は50名に満たなかった。

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フィリピン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:35 UTC 版)

サン・ジャシント (空母)」の記事における「フィリピン戦線」の解説

サン・ジャシントアドミラルティ諸島マヌス島物資補給受けた後に沖縄攻撃参加上陸作戦備えて地上基地写真撮影行った洋上給油行った後、僚艦台湾、北ルソンおよびマニラ湾対す攻撃行っている間10月12日から19日まで戦闘偵察飛行行っている。この間10月17日サン・ジャシント艦載機着陸の際に誤って機銃艦橋発射し、2名が死亡24名が負傷したこの中には部隊指揮官含まれており、レーダーに対して大きな被害生じた。この事故にもかかわらずサン・ジャシント作戦行動続けたアメリカ軍10月20日フィリピン中部レイテ上陸すると、サン・ジャシント友軍の上掩護行った。この任務10月24日栗田健男中将率い日本艦隊発見の報により中断されるサン・ジャシントラルフ・F・デヴィソン少将の第38.4任務群の一艦として艦載機投入しエンガノ岬沖海戦多大な戦果上げた10月30日艦載機レイテ島上空防衛を行う。その一方サン・ジャシント突入試みた2機の特攻機艦砲撃墜している。ウルシー環礁停泊したマニラ湾攻撃部隊加わりその後グアム航空団交代、第45航空団乗艦させる。しかし、1944年12月18日任務部隊ごとコブラ台風遭遇サン・ジャシント前日17日から飛行機給油系統からガソリン抜いた爆弾隔離したりと徹底的な台風対策行ったものの、ローリングにより格納庫内の飛行機同士ぶつかり合って軽微な損傷を負う。勇敢な乗組員が転がる飛行機やその残骸片付け発生した小火災を消し止めた結果サン・ジャシント最悪の状態を脱することができた。なお、この前後にブッシュ116回の出撃達成して本国帰国している。

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フィリピン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 10:19 UTC 版)

ボイシ (軽巡洋艦)」の記事における「フィリピン戦線」の解説

マリアナ沖海戦勝利により、マッカーサー部隊対す日本軍圧力消滅したマッカーサー軍はモロタイ島攻略したあとフィリピン迫ったボイシフィリピン攻略作戦加わりレイテ島上陸10月20日 - 24日)を支援した10月25日未明スリガオ海峡海戦におけるボイシは、フェニックス豪州海軍重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) 、駆逐艦6隻と共にラッセル・S・バーキー英語版少将の第77.3任務群に属していた。第77.3任務部隊ジェシー・B・オルデンドルフ少将の第77.2任務群と共同して第一遊撃部隊第三部隊指揮官西村祥治第二戦隊司令官通称西村艦隊)を迎え撃った西村艦隊には、渾作戦出動した戦艦扶桑含まれていたが、ボイシ交戦するまえにアメリカ軍駆逐艦雷撃駆逐艦満潮山雲一緒に沈んでしまった。最初魚雷攻撃生き残った西村艦隊3隻(戦艦山城重巡最上駆逐艦時雨)がスリガオ海峡北上してきたので、第77任務部隊丁字戦法邀撃した。ボイシ山城砲撃加えた。さらに僚艦と共に砲雷撃を浴びせて山城撃沈したものの、最上時雨取り逃がした。また味方駆逐艦アルバート・Wグラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が第77任務部隊巡洋艦誤射されて大破した夜明け近づく頃、第77任務部隊巡洋艦駆逐艦は、艦首失っていた駆逐艦朝雲袋叩きにして沈めたその後ボイシミンドロ島上陸12月12日 - 17日)および礼号作戦への迎撃行動12月26日 - 29日)に従事した

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