フィリピン戦線
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「インディペンデンス (CVL-22)」の記事における「フィリピン戦線」の解説
「十・十空襲」および「台湾沖航空戦」も参照 9月に第38任務部隊はフィリピン侵攻に向けて連日の攻撃を行った。インディペンデンス搭載の第41夜間軽空母飛行群は、9月12日の夜にサマール島上空で一〇〇式司令部偵察機を撃墜して、初めての夜間戦闘の戦果を挙げた。この期間に日本軍の本格的な反撃はなかったため、インディペンデンスは夜間の作戦活動から昼間作戦活動も行うようになり、ルソン島の日本軍拠点を攻撃した。第38任務部隊は10月初旬にウルシー泊地で補給を受けた後、10月6日に沖縄攻撃に向けて出撃した。第38任務部隊は沖縄、台湾、フィリピンに対して攻撃を行った。日本軍の航空反撃はインディペンデンスの艦載機等による昼間攻撃および夜間偵察、攻撃によって撃退された。特に、夜間での戦果は夜間戦闘機に対する評価を高める結果となった。 アメリカ軍空母機動部隊は10月23日にフィリピンから東に向けて出航した。後にロバート・カーニー提督が「壮大な規模の何かが進行中だった」と回想したように、アメリカ軍の攻勢は明白な物であった。ジェラルド・F・ボーガン(英語版)少将指揮下の第38.2任務群に属するインディペンデンスの飛行群は10月24日のシブヤン海海戦で、栗田艦隊に対して攻撃を開始する。ハルゼー部隊の攻撃隊は戦艦武蔵を撃沈し、重巡妙高が落伍して反転、ほかに数隻に損害を与えた。栗田艦隊は進撃をやめて、西方に退却した。ハルゼー部隊のパイロットは過大な戦果報告をおこない、ハルゼー大将は「栗田艦隊は無力化された」と判断した。そこで当面の撃破目標を、北に発見した第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将が率いる第三艦隊と定め、高速戦艦や巡洋艦、駆逐艦で構成された特別編成の第34任務部隊(ウィリス・A・リー中将)および3個任務群を小沢機動部隊撃滅に急行させて、サンベルナルジノ海峡をがら空きにした。この時、インディペンデンスの夜間探索機は再び東航する栗田艦隊を発見し、さらにここ数日間点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が煌々と点灯されているのを発見。報告を受けたボーガン少将はハルゼー大将に報告しようとしたが、ハルゼー大将の幕僚もこの報告を受信しており、幕僚はボーガン少将に「もう知っている」と返事した。 一方、インディペンデンスの夜間索敵機(アヴェンジャー)は小沢機動部隊に触接し続けた。第38任務部隊は25日朝から小沢機動部隊に対する攻撃を繰り返し、小沢機動部隊の空母4隻を全て撃沈した(両軍戦闘序列)。しかし、その間隙を突いた栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡を突破してサマール島近海でクリフトン・スプレイグ少将率いる護衛空母と艦隊型駆逐艦、護衛駆逐艦からなる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を攻撃する。レイテ湾方面の敵勢力は第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処できると考えていたハルゼー大将だったが、キンケイド中将の泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受け、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうち高速戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、大急ぎで栗田艦隊攻撃を行った。レイテ沖海戦でアメリカ艦隊は多大な戦果を挙げ、激戦の終了は同時に日本海軍の終焉も意味していた。インディペンデンスは航空偵察と、フィリピン攻撃を行う第38任務部隊への夜間航空援護を継続した。これらの作戦活動でインディペンデンスは空母部隊の前進に大きく寄与した。 インディペンデンスはウルシー泊地に帰投し、11月9日から14日までの間、遅れた休暇と補給を取る。しかしながらすぐにフィリピン沖での夜間攻撃と防衛作戦任務に就く。作戦活動は1944年12月30日まで継続し、この間コブラ台風に遭遇。艦自体に大した被害はなかったものの、何名かの乗組員が激浪にさらわれて行方不明となった。その後ウルシー泊地で休養の後、この当時は夜間戦闘機専用空母となっていたエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) と夜間戦闘機空母部隊を組んで出撃した。1945年(昭和20年)1月3日から9日までルソン島のリンガエン湾上陸を支援した。つづいてカムラン湾に潜むとみられた航空戦艦2隻(日向、伊勢)を始末するため、ハルゼー大将は空母機動部隊を南シナ海に向ける(グラティテュード作戦)。インディペンデンスとエンタープライズの夜間偵察機も航空戦艦2隻の捜索に参加した。しかし、第四航空戦隊と第二水雷戦隊はリンガ泊地に移動した後で、第38任務部隊は台湾、インドシナ、中国本土の日本軍基地を攻撃し、軽巡洋艦香椎率いるヒ86船団を全滅させ、ヒ87船団に大打撃を与えた。フィリピンの戦いをめぐるこれらの支援作戦は、この方面での空母の夜間活動の終了を示すこととなった。南シナ海での作戦を終えたインディペンデンスは1945年(昭和20年)1月30日に修理のため真珠湾へ向かった。
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フィリピン戦線
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1944年(昭和19年)7月26日に動員下令、8月13日に東安を発ち釜山を経て門司で船団を組みルソン島に向かい、連隊主力はサンフェルナンドに上陸した。この間に第2中隊乗船の津山丸がバシー海峡航行中に雷撃により海没、藤崎中尉以下40名を失い、サンフェルナンドに人員だけを揚陸した第5中隊の戦車も、回航していた大敏丸の海没により失われた。そのため、10月中旬にマニラ北方のシブルスプリングに集結、損失を補填し連隊の再編成が行われた。 そして、内田文夫大尉指揮の第1中隊をレイテ島に派遣し、主力はルソン島にて戦闘準備を整えた。 翌1945年(昭和20年)1月6日にリンガエン湾にアメリカ軍が上陸を開始し、同月18日連隊主力はサン・ニコルスに展開し迎撃態勢を敷いた。上陸するアメリカ軍の兵力は、3コ師団、戦車400輌を数え、上陸前の艦砲射撃の激しさもあり、火力に於ける劣勢は如何ともしがたく、2月8日までに全ての戦車が破壊された。全ての戦車を失った後は徒歩戦闘に移り、サラクサク峠でアメリカ軍第32歩兵師団を迎え撃ったものの5月には壊滅、フィリピンに出陣した800余名のうち終戦後祖国に帰還できた者は50名に満たなかった。
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フィリピン戦線
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「サン・ジャシント (空母)」の記事における「フィリピン戦線」の解説
サン・ジャシントはアドミラルティ諸島マヌス島で物資補給を受けた後に沖縄攻撃に参加、上陸作戦に備えて地上基地の写真撮影を行った。洋上給油を行った後、僚艦が台湾、北ルソンおよびマニラ湾に対する攻撃を行っている間10月12日から19日まで戦闘偵察飛行を行っている。この間の10月17日にサン・ジャシントの艦載機が着陸の際に誤って機銃を艦橋に発射し、2名が死亡、24名が負傷した。この中には部隊指揮官が含まれており、レーダーに対して大きな被害が生じた。この事故にもかかわらず、サン・ジャシントは作戦行動を続けた。 アメリカ軍が10月20日にフィリピン中部のレイテに上陸すると、サン・ジャシントは友軍への上空掩護を行った。この任務は10月24日の栗田健男中将率いる日本艦隊発見の報により中断される。 サン・ジャシントはラルフ・F・デヴィソン少将の第38.4任務群の一艦として艦載機を投入し、エンガノ岬沖海戦で多大な戦果を上げた。10月30日に艦載機はレイテ島上空防衛を行う。その一方、サン・ジャシントは突入を試みた2機の特攻機を艦砲で撃墜している。ウルシー環礁で停泊した後マニラ湾攻撃部隊に加わり、その後グアムで航空団を交代、第45航空団を乗艦させる。しかし、1944年12月18日に任務部隊ごとコブラ台風に遭遇。サン・ジャシントは前日17日から飛行機や給油系統からガソリンを抜いたり爆弾を隔離したりと徹底的な台風対策を行ったものの、ローリングにより格納庫内の飛行機同士がぶつかり合って軽微な損傷を負う。勇敢な乗組員が転がる飛行機やその残骸を片付け、発生した小火災を消し止めた結果、サン・ジャシントは最悪の状態を脱することができた。なお、この前後にブッシュは116回の出撃を達成して本国に帰国している。
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フィリピン戦線
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「ボイシ (軽巡洋艦)」の記事における「フィリピン戦線」の解説
マリアナ沖海戦の勝利により、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した。マッカーサー軍はモロタイ島を攻略したあとフィリピンに迫った。ボイシもフィリピン攻略作戦に加わり、レイテ島上陸(10月20日 - 24日)を支援した。 10月25日未明のスリガオ海峡海戦におけるボイシは、フェニックス、豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) 、駆逐艦6隻と共にラッセル・S・バーキー(英語版)少将の第77.3任務群に属していた。第77.3任務部隊はジェシー・B・オルデンドルフ少将の第77.2任務群と共同して、第一遊撃部隊第三部隊(指揮官西村祥治第二戦隊司令官、通称西村艦隊)を迎え撃った。西村艦隊には、渾作戦に出動した戦艦扶桑も含まれていたが、ボイシと交戦するまえにアメリカ軍駆逐艦の雷撃で駆逐艦満潮と山雲と一緒に沈んでしまった。最初の魚雷攻撃を生き残った西村艦隊3隻(戦艦山城、重巡最上、駆逐艦時雨)がスリガオ海峡を北上してきたので、第77任務部隊は丁字戦法で邀撃した。ボイシは山城に砲撃を加えた。さらに僚艦と共に砲雷撃を浴びせて山城を撃沈したものの、最上と時雨を取り逃がした。また味方の駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が第77任務部隊の巡洋艦に誤射されて大破した。夜明けが近づく頃、第77任務部隊の巡洋艦と駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた。 その後、ボイシはミンドロ島上陸(12月12日 - 17日)および礼号作戦への迎撃行動(12月26日 - 29日)に従事した。
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