戦闘準備
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ジョーンズの乗組員は「その財産を作る」機会を約束するという宣伝で集められていた。それはイギリス商船に対する私掠行為によって成される褒賞だった。実際のところレンジャーは海軍の艦船であり私掠船ではなかったので、イギリスの商船は捕獲されるよりも沈められることが多かった。これは捕獲した商船をフランスまで曳航するために多くの船員を割くことを避けるためだった。ジョーンズは海軍の指揮官としてある程度失敗を犯していた。イギリス税関の船に火を付けた後にその逃亡を許したという戦略的な誤りと考えられることについて乗組員はジョーンズを責めていた。このときジョーンズはイギリス海軍の艦船をその碇泊地から捕獲して帰ることを目指していた。それは大きな利益に繋がる船荷は積んでいないが、訓練された戦闘用の水夫と大砲が手に入るはずだった。4月24日日の出直後の出来事に関する証言は、戦いから数年後に出版した大いに飾り立てられたフランス語の自叙伝に載っているものだが、全くの誇張ではない可能性がある。「私は殺されるか、あるいは海に投げ込まれるという大きな危険性を冒した。」ドレイク乗組員にとって不運なことに、この時の風と潮の状態は出港には適していなかったが、望遠鏡の扱いに慣れた者が結局カリックファーガスに行く必要も無いと判断し、出港の準備を始めていた。 実際にドレイクはレンジャーが先に接近してきた時以降行動に移る準備をしていた。カリックファーガス地域から志願兵を募り、乗組員は100名ないし160名になっていたが、その多くは陸兵であり、接近戦のときに使えるものだった。それゆえに23日の夜には砲手長代行が集められた兵士全てのために弾薬を用意するには十分なカートリッジ紙がないと報告していた(正規の砲手長はポーツマス海軍基地に寄ったときに病院に収容されていた)。さらにはこの重要な時に艦の要職者が不在だった。船長補は病気、掌帆長は蜜貿易船を捕獲しようとした時に撃たれて戦死、大尉は2日前に熱病で死亡していた。年取った艦長のジョージ・バードンは後の報告では彼自身も健康が優れなかったとされていた。しかしそのような事情があってもイギリス海軍の艦船はその任務を遂行するしかなかった。ドレイクは午前8時頃に出港したが、相変わらず風と潮の具合が悪くあまり進めなかった。1時間かそこら後にドレイクは侵略船を視認する所まで来ており、結果としてこの時点が転換点であった可能性がある。ジョーンズは数日前に税関の船を捕まえ損なったときの作戦を少し変えてみることにした。すなわち乗組員の大半と大きな大砲を隠し、無害な船であることを装うことだった。このときはそれがうまくいった。ドレイク偵察ボートの乗組員(砲手長補、少尉および水兵6人)を全て捕まえることができた。この成功でアメリカ兵の士気を大いに上げ、さらに捕虜の1人がドレイクには多くの志願兵が乗り組んでいると告げたことでおまけが付いた形になった。 ドレイクは入江からのろのろと出て行ったので、アメリカ軍にとっては二重のおまけがついた。午後1時頃、別の小さなボートが現れて、別の志願兵であるイギリス海軍のウィリアム・ドブス副艦長を運んできた。ドブスは最近結婚したばかりの土地の者であり、ドレイクのパイロットの証言では、ホワイトヘイブンから「謎の艦船」(レンジャー)に関する詳細を説明する速達便の写しを携行して来ていた。ジョーンズはその前夜にホワイトヘイブンからの報せが到着しており、その朝に捕まえた捕虜に知らされていたことを、その公式報告書の中で指摘している。その日の午後には風と潮の具合が好都合になったので、レンジャーはベルファスト入江からノース海峡の方へ緩りと後退したが、ドレイクから遠く離れ過ぎないように注意していた。最終的に午後6時頃、両艦は指呼の間に接近した。ジョーンズはアメリカ海軍旗を掲げており、ドブス副艦長からの船籍を問う正式な照会に対しても、全くの真であると応えた。 ノース海峡の海戦は後の1779年に行われたイギリス海軍のHMSセラピスとの 一騎討ちに対するある面で逆の結果を生み、小型の前哨戦の形になった。ドレイクは防御性能を備えた商船として建造されており、イギリス海軍は多くの船舶がアメリカ大陸に送られた隙間を埋めるためにこれを購入していた。4ポンド砲20門搭載というのは海軍の公式記録ではないが、当初商人が購入したときのままだった。その船殻は急速な操船には不向きな形状であり、大砲の砲撃には耐えられないものだった。レンジャーは戦闘艦として建造されており、ジョーンズが効果を最大にできるように改修していた。例えば、大砲のための砲口が20門あったが、6ポンド砲18門を搭載した方が安全であると判断していた。このことで舷側の総攻撃力は54ポンドとなり、ドレイクの40ポンドより僅かに上回っていた。しかし、アイルランドの志願兵が多く居たという事実は、もしドレイクが接舷してレンジャーに乗り移ることができれば、アメリカ艦の方が大変なことになったであろうことを意味していた。
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戦闘準備
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「アッサンピンク・クリークの戦い」の記事における「戦闘準備」の解説
1月1日、トレントンに大陸会議からの軍資金が届き、兵士たちに約束した報奨金が分配された。また、ワシントンに一連の決議も送られて来た。決議のうちの一つには、彼に、軍事独裁者に近い権限を与えるとあった。ワシントンは決断を下し、トレントンに留まって戦うことにした。そしてクロスウィックスにいたジョン・キャドワラダー将軍に、1800人の民兵とともに、トレントンで合流することを命じた。31日、ワシントンはイギリスの将軍、チャールズ・コーンウォリスの、8,000名の軍が、大陸軍を攻撃にトレントンに移動しているという情報を得た。 ワシントンは兵士に命じて、アッサンピンク・クリークの南岸と平行に土塁を築かせた。この土塁は、小川(クリーク)から南に3マイル(約4.8キロ)下流にまで及んでいた。しかし、ワシントンの副官であるジョセフ・リードは、流れの上流には浅瀬があって、イギリス軍がそこを渡るであろうこと、また、イギリス軍が、大陸軍の右翼を攻撃できる位置につくであろうことを指摘した。ワシントンはデラウエア川を渡っての退却は不可能だった、大陸軍の船は、すべて上流から数マイル(3‐5キロ)のところにあったのである。彼は士官たちに、軍をいずれ動かすこと、今の配置は暫定的なものであることを告げた。
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戦闘準備
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ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。 その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための2日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか東方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった。 ナポレオンは前夜を過ごしたル・カイユー(Le Caillou)の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンに負け続けているから、彼を買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった。 この後、ナポレオンは末弟のジェロームから、宿屋の給仕がジュナッペの旅館「キング・オブ・スペイン(King of Spain)」で食事をとったイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルから行軍中であるという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも2日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のル・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった。 戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった。 11時にナポレオンは全体命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の大砲列(grande batterie)が英蘭軍中央への砲撃を開始し、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた。
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「第六次イゾンツォの戦い」の記事における「戦闘準備」の解説
オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ参謀総長は、6月から始まったロシア軍のブルシーロフ攻勢によって死傷者・捕虜合わせて150万人という大損害を受けた東部戦線の補充のため、イタリア戦線の兵を転用することにした。イタリアの最高指揮官ルイージ・カドルナは5月から開始されたアジアーゴの戦いに勝利し、弱くなったオーストリア=ハンガリー軍の守りを攻めるために、トレンティーノ (Trentino) から鉄道を上手く利用し、素早く軍を送り込んだ。
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戦闘準備
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正行の怒涛の攻勢に、室町幕府は本格的な南朝攻撃を決意し、執事高師直を総大将、その弟の高師泰を第二軍の大将とする大軍を編成して河内に派遣することを決定した。 正平2年/貞和3年(1347年)12月14日、まずは第二軍の高師泰(執事高師直の弟)が先に出陣し(『師守記』『田代文書』)、和泉国堺浦(現在の大阪府堺市)に向かい、同地で待機(『淡輪文書』)。11月から幕将淡輪助重が南朝からの攻撃に対し和泉井山城(現在の大阪府阪南市箱作に所在)に立てこもっていたが、師泰の出陣を待って合流した(『淡輪文書』)。 総大将高師直の出発は初め18日夜と噂されていたが(『園太暦』)、なぜかそれより遅れ、25日(『東金堂細々要記』『建武三年以来期』)もしくは26日(『師守記』)に京を立ち、八幡に到着、諸国の兵の到着を待った。 この月、南朝・北朝・幕府の三勢力とも国家の存亡を決める決戦の気配を感じたのか、盛んに戦勝祈願を行った。例を挙げれば、17日、南朝の後村上天皇は、東寺に対し、後宇多天皇・後醍醐天皇の遺志を継いで「天下一統」を達成できた暁には、この寺を取り立てると約束して、戦勝祈願をさせた(『東寺文書』)。24日、北朝の光厳上皇は院宣を発して、醍醐寺に天下静謐を祈らせた(『醍醐地蔵院日記』)。26日、幕府の将軍弟足利直義は、天下静謐のため、東寺と神護寺に大般若経を37日間転読するように要請した(『東寺文書』『神護寺文書』)。 年が明けて正平3年/貞和4年1月1日、諏訪部扶直ら幕府の諸将が八幡に到着(『三刀屋文書』)。他の有力武将としては、引付方頭人でバサラ大名として著名な佐々木導誉や(『三刀屋文書』)、足利氏支流佐野氏の武将佐野氏綱がいた(『古今消息集』)。
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ロマノスに同行したアンドレニコス・ドゥーカスは摂政であり直接の政敵でもあった。軍は5,000の西方の属州からのローマの職業軍人ともしかしたら同数の東方の属州からの軍勢、すなわちルーセル・ド・バイユール指揮下の500人のフランク人とノルマン人傭兵に、アンティオキア公指揮下のトルコ人(オグズ族、ペチェネグ族)とブルガール人の傭兵からなる歩兵とたまたま参加したグルジアとアルメニアの軍勢とヴァラング隊の軍勢から構成されておりこれは全部で4万から7万であった。ローマの属州(テマ)の軍の量はロマノスが継承する前年までに減少してきた。中央政府が財力を、帝国内の党派争いに関与させやすい傭兵の徴募に流用していたのだ。傭兵が使用されたときでさえ、彼らはのちにカネの節約のために解散させられた。 小アジアを横断する進軍は長く困難なものであり、ロマノスは豪華な荷物を持ってくることで軍を手なずけていた。ローマの住民はまたロマノス軍のフランク人傭兵の略奪に苦しんでいた。彼は解任されることを余儀なくされた。1071年、6月にテオドシオポリス(いまのエルズルム)に到達した遠征軍はハリュス川のセバスティアで最初の休息を取った。そこでは将軍のなかには進軍を続けて、セルジューク朝の領内に侵入し、アルプ・アルスラーンが陣容を整える前にこれをとらえてしまうことを示唆するものがいた。ニケフォロス・ブリュエンニオスを含む他の将軍にはここで休み、その陣地を強化することを示唆するものもいた。最終的には進軍の継続が決定した。 アルプ・アルスラーンは遠くにいるか全く来ないかのどちらかだと考え、ロマノスはヴァン湖まで進軍し、可能ならヒラート要塞より近い、マラズギルトの奪還を期待していた。 ところが、アルプ・アルスラーンは実際にはこの領域に30,000のアレッポとモスルからの騎兵とともにいたのである。アルプ・アルスラーンの斥候はロマノスの居場所を正確に知っていた。その間ロマノスは敵の動きを知らなかった。 ロマノスは将軍のイオセフ・タルカネイオテスにローマ軍とヴァラング隊と従軍しているペチェネグ族とフランク族の軍勢にヒラート要塞をとるように命令し、その間ロマノスと残る軍勢はマラズギルトを目指して進軍した。この軍の分割で両軍の数は20,000人ほどになった。イオセフス・タルカネイオテスと彼とともに分割された軍に何が起きたかはわからない。イスラームによるとこの軍はアルプ・アルスラーンによって壊滅させられたと。しかしロマノス側の記録では出会いは平穏なままだと残っている。一方で東ローマの史家のミカエル・アタラレイアテスはローマ軍の評判を考えるとありそうにないことだがタルカネイオテスがセルジューク朝の光景を見て逃げたと示唆している。いずれにせよ、ロマノスの軍は当初の4万から7万の半分以下に減少した。
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戦闘準備
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「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「戦闘準備」の解説
ジェルバでの大敗ののち、オスマン軍のマルタ再侵攻の恐れは更に高まった。1560年8月にジャン・ド・ヴァレットは騎士団員へチタジオーネ(招集)を掛け、全てにおいて騎士団が優先されるとしてマルタへの帰還と戦闘準備を命じた。騎士団にとって幸いなことに、この時は後継者問題で揺れるオスマン側は何も行動を起こそうとせず、騎士団とスペインが軍を再建する時間を与えた。 戦力を充実させつつ、騎士団は異教徒と見られる船を襲い略奪し続けた。1564年半ば、騎士団で最も悪名高い船乗りマトゥリン・ロメガスがいくつかの大型商船を捕らえた。その中には後宮の宦官長所有の船が含まれており、カイロ総督、アレクサンドリア総督、スレイマン1世の娘の乳母だった者といった多数の位の高い人々を連行した。 1565年初頭、イスタンブールに潜入していたド・ヴァレットのスパイが、侵攻が差し迫っていることを知らせた。ド・ヴァレットはイタリアで募兵を開始、物資の貯蔵を進め、聖アンジェロ砦、聖ミケーレ砦、聖エルモ砦の整備を完了させた。
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戦闘準備
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ジョン・オブ・ゴーント、オルレアン公ルイ、ブルゴーニュ公フィリップ(大胆公)らによる初期の計画が1395年になされ、翌年シャルル6世とリチャード2世が続いたが、1396年の初めまでにはこれらの計画は放棄された。 代わりにフィリップ2世の長子ヌヴェール伯ジャンが、約1000人のイングランド人派遣軍とほとんどがブルゴーニュ公国の騎兵から成るおよそ10,000のフランス軍を組織した。バイエルンからの6000の軍もあった。しかし、ジャン指揮下の軍の数を8,000とする他の史料もある。この場合、ジギスムントがハンガリーから6,000から8,000人を総勢16,000の軍に提供したことになる。 フランス軍はモンベリアルを1396年の4月に進発してウィーンに5月と6月に到着し、7月にはブダでジギスムントに合流した。ワラキア公国のミルチャ1世(年長公)(en)は正教徒であったが、十字軍に大軍で参加した。ワラキアはいまやキリスト教世界とイスラーム世界との境界を構成していたのである。カラノヴァサの戦いやロヴィネの戦い、1395年のカルヴナ公国(en)をめぐる諸戦闘などでミルチャはバヤズィトに何度か打撃を与えていたので、ワラキアは(モルダヴィアのように)オスマン軍の戦術に精通していた。 ニコポリスで捕虜となったバイエルンの十字軍戦士ヨハン・シルトベルガー(en)は、二つの異なる戦法の選択の不同意から引き起こされた対立について、後に回想録で述べている。 その二つの戦法とは、その軍の大半が鈍重な、典型的な西欧の重騎士で構成される十字軍の戦法と、敵情を見極め最適の戦術を決定するため、戦闘に優先して偵察の実行をジギスムントに意見具申したミルチャの戦法である。ジギスムントが賛同し、ミルチャは十字軍の指揮権と、ワラキアの軽騎兵団が偵察を終えた後に第一撃を加える権利を要求した。ジギスムントは快く同意したが、伝統的な戦術のいかなる修正も拒否するジャン無怖公や他の西欧の騎士によって提案は退けられてしまった(ジャンは遠距離を進軍して莫大な財を遠征に費やしたので、先陣の功を狙っていた)。 ジャンが連合軍の指揮権を取り、ニコポリスに向けて南に進軍を開始した。国境地域は十字軍の進路に沿って略奪され、ラホヴォの町(オリャホヴォ、en)は蹂躙されて住民は殺されるか捕虜となった。小規模なオスマン軍も何隊か捕捉された。
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