掃海駆逐艦時代・フィリピン戦線
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「ホーヴェイ (駆逐艦)」の記事における「掃海駆逐艦時代・フィリピン戦線」の解説
修理完工後、ホーヴェイは司令W・R・ラウド大佐率いる第2機雷部隊の旗艦となり、7月29日に真珠湾に向けて出港する。ツラギ島に到着し、パラオ南方で作戦予定のジェシー・B・オルデンドルフ少将率いる西部火力支援部隊の対戦護衛任務に就くため、9月6日にツラギ島パーヴィス湾を出撃する。ペリリュー島とアンガウル島周辺およびコッソル水道の掃海にあたり、またペリリュー島近海の輸送船泊地の対潜警戒も行った。1944年10月からのレイテ島の戦いにはトーマス・スプレイグ少将の「タフィ1」第77.4.1任務隊に随伴し、掃海と水路啓開任務を担当する。10月17日のディナガット島に対する上陸作戦では高速輸送艦の護衛と火力支援、掃海の3つの任務を遂行した。次いでローク湾とドラグ(英語版)、タクロバンの沖を掃海し、任務を終えたホーヴェイは10月25日にマヌス島に帰投した。 12月23日、依然としてラウド司令の旗艦であるホーヴェイはマヌス島を出撃し、12月30日にレイテ湾に到着。次いで1945年1月2日にルソン島リンガエン湾を目指して艦隊とともにレイテ湾を発ち、スリガオ海峡とミンダナオ海を通過する。1月3日の朝までは一切の反撃がなく、1月3日以降は神風特別攻撃隊などの攻撃を断続的に受けるが、ホーヴェイも含めた艦船は、弾薬の浪費を警戒して敵が直近に来ない限りは発砲しないという規則をもうけていた。それでも1月6日にはリンガエン湾に到着する。8時すぎ、湾口で神風の攻撃を受けるも、ホーヴェイはそのうちの1機を撃墜する。しかし、かつてはホーヴェイ同様に4インチ連装砲を搭載して同じく掃海駆逐艦となっていたロングと高速輸送艦ブルックス(英語版) (USS Brooks, APD-10) が神風攻撃により、それぞれ1機ずつ命中する。ロングは神風の命中により艦橋より前が火災となり、弾薬と燃料に引火して大爆発を起こした。ホーヴェイはロングに接近して149名の乗組員を救助し、ロングは沈んでいった。その夜、ホーヴェイは湾口の掃海任務に戻った。 ホーヴェイのレーダーは1月7日4時25分までは何も探知しなかった。4時50分、ホーヴェイの右舷前方から低空飛行で接近する目標を探知する。チャンドラーは素早く反撃してそのうちの1機に命中弾を与える。航空機は被弾しながらもホーヴェイに低空で接近するが、間もなく右舷側に墜落する。しかし、この航空機は魚雷を抱えており、燃えながら墜落する直前に放たれたこの魚雷は4時55分、ホーヴェイの右舷側機械室に命中する。ホーヴェイのすべての動力と照明は断たれ、後部船体は急速に沈んで艦首は40度上がった。2分後、ほぼ垂直に近い角度を示したホーヴェイの船体は、急速に水深99メートルの海底に沈んでいった。ホーヴェイの乗組員は24名が戦死し、ほかにロングとブルックスから救助した者も何名か戦死した。そのうちの一人、ジョゼフ・チェンバレンはロングの乗組員であり、ロングが神風の命中で炎上した際に大やけどを負ったにもかかわらず消火に尽力、ホーヴェイに救助されたもののホーヴェイが沈没に瀕した時救命いかだのところまで運んでもらったが、チェンバレンは重傷の身ながら救命いかだを他の者に使わせてやるように懇願し、自身はホーヴェイと運命を共にした。残る生存者は戦艦ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) に救助された。ホーヴェイの沈没位置は北緯16度20分 東経120度10分 / 北緯16.333度 東経120.167度 / 16.333; 120.167と記録されている。 ホーヴェイは第二次世界大戦の功績で、8個の従軍星章(英語版)を受章した。
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