高速輸送艦
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高速輸送艦(こうそくゆそうかん、英: High Speed Transports)とはアメリカ海軍が第二次世界大戦期から上陸作戦の支援任務に使用し始めた、駆逐艦または護衛駆逐艦を改装した輸送艦をいう。艦種記号は「APD」で、「AP」は輸送を、「D」は駆逐艦を意味する。
- ^ ボールドウィン 1967, p. 426
- ^ 吉本貞昭 2012, p. 195
- ^ ウォーナー 1982b, pp. 294–359
- 1 高速輸送艦とは
- 2 高速輸送艦の概要
- 3 他国の類似艦船
高速輸送艦
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「バリー (DD-248)」の記事における「高速輸送艦」の解説
対潜掃討部隊での任務を終えたバリーは、高速輸送艦に改装されることとなった。1943年12月31日から1944年2月17日までチャールストン海軍工廠で改装工事が行われ、その間の1944年1月15日にハルナンバー(英語版)が APD-29 に変更された。改装後、バリーは4月13日に東海岸を発してメルス・エル・ケビールに向かい、4月30日に到着。8月14日まで水陸両用戦の訓練を行い、南フランスからの反攻作戦に備えた。8月15日から20日までの間、ドラグーン作戦に参加したバリーはフランス領のポール・クロ(英語版)とレヴァント島(英語版)に陸上部隊を上陸させた。作戦終了後は8月下旬から12月まで西地中海方面で船団護衛任務に従事したあとアメリカに向かい、1944年12月23日にノーフォークに帰投した。 バリーは簡単な修理ののち太平洋に向かうこととなり、1945年3月24日に出港した。ハワイ諸島海域で訓練を行ったのち沖縄諸島に向かい、5月16日に到着。到着後は諸島周辺海域の哨戒にあたった。5月25日、バリーは沖縄から北西に57キロ離れた海域で哨戒を行っていた。この5月25日と前日24日、日本軍は菊水七号作戦を発動しており、バリーにも2機の特攻機が突入してきた。そのうちの1機は撃墜したが、もう1機は弾幕を突破してバリーの艦橋下に命中。バリーの乗組員のうち28名は破片で負傷し、爆発で生じた火災は神風から流出したガソリンとバリーの燃料庫および弾薬に燃え移り、艦の前部に脅威をもたらした。命中してから40分後の13時40分、艦長はバリーの放棄を決定し、乗組員は救命ボートで脱出した。15時過ぎ、浸水がバリーの火災を抑え込むのを見た高速輸送艦シムス(英語版) (USS Sims, APD-50) とローパー(英語版) (USS Roper, APD-20) からの消火班はバリーに乗り込み、活動の結果翌5月26日6時30分ごろにはおおむね鎮火した。 バリーは5月28日に慶良間諸島の泊地に曳航されたが被害の規模は大きく、復旧は割に合わないと判断された。バリーは部品取りとなり、再利用可能な部品は他の艦艇に転用されることとなった。1か月後の6月21日、バリーは除籍された。この日もまた、日本軍は菊水十号作戦を発動して特攻機を送り込んできたが、投入される機材も人材も沖縄戦の末期にあたるころからはほとんど払底した感じとなり、菊水七号作戦からは練習機「白菊」も投入されるようになっていた。アメリカ軍は除籍したバリーを特攻機を引き付けるデコイとして使用することとした。バリーは リパン(艦隊曳航船)(英語版)と中型揚陸艦 LSM-59に挟まれるようにして曳航されて慶良間の泊地から引き出され、海上に向かった。間もなく6機の「白菊」が出現し、うち2機がバリーではなく、曳航しているリパンとLSM-59を目指して突入してきた。しかしリパンを狙った白菊はリパンを飛び越しバリーに命中した。もう1機はLSM-59に命中、これを撃沈し10名のアメリカ兵が死傷した。白菊1機が命中したバリーも翌日の6月22日に沈没した。バリーが沈んだ6月22日、沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟でともに切腹して果て、沖縄戦は終結。菊水作戦もこの6月22日をもって終了した。 バリーは第二次世界大戦の功績で、第21.14任務群での戦功で殊勲部隊章(英語版)を受章し、ほかに4個の従軍星章(英語版)を受章した。
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高速輸送艦
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ファラガット級駆逐艦の竣工以降、アメリカ海軍は大量に保有していたウィックス級をはじめとする従来型の駆逐艦を順次除籍したり、他の艦種に移すなどの作業を行っていた。艦種変更の作業は大戦参戦後も続き、ワードはピュージェット・サウンド海軍造船所に回航されて高速輸送艦への改装工事を受けた。従来装備の4インチ砲と50口径機銃は時代遅れで撤去され、代わりに3インチ砲と40ミリ機関砲、20ミリ機銃が装備された。また魚雷発射管もすべて撤去、上陸用揚陸艇(LCR)4隻がその跡に搭載された。ワードは1943年2月6日に APD-16 として再就役し、南太平洋の戦線に赴いた。 南太平洋に到着したワードはエスピリトゥサント島を拠点に、ガダルカナル島向けの護衛と輸送に任じる。1943年4月7日、ワードはツラギ島停泊中に「い号作戦」による日本機の空襲を受け、ただちに湾外に出て日本機2機を撃墜する。空襲により駆逐艦アーロン・ワード (USS Aaron Ward, DD-483) と給油艦カナワ(英語版) (USS Kanawha, AO-1) が沈没したが、それ以上の深刻な被害はなかった。6月には16日にガダルカナル島沖で空襲に遭ったものの撃退する。しかし、その一週間後の6月23日、船団護衛中に日本潜水艦呂号第一〇三潜水艦(呂103)の攻撃を受け、2隻の貨物輸送艦、アルドラ(英語版) (USS Aludra, AK-72) とダイモス (USS Deimos, AK-78) が沈没する被害を受けた。12月に入り、ワードはダグラス・マッカーサー陸軍大将率いる南西太平洋軍に入り、第76任務部隊の一艦として12月17日にミルン湾に到着。ニューブリテン島およびニューギニアへの攻撃に参加し、12月26日からのグロスター岬の戦い、1944年1月下旬のグリーン諸島の戦いおよび3月下旬のエミラウ島の無血占領とラバウル包囲に関わる作戦に参加した。戦線がニューギニア北部要地に移ったあとも4月からのホーランジアの戦い、5月下旬からのビアク島の戦い、7月からのアイタペの戦いおよびサンサポールの戦いおよび9月のモロタイ島の戦いと、マッカーサー大将のフィリピンへの帰還を果たすための戦いを一貫して支援し続ける。10月に入り、フィリピン奪還作戦が本格化。ワードは10月17日にフィリピン東部ディナガット島攻略戦に参加する。レイテ沖海戦後はレイテ湾と後方基地のコッソル水道やホーランジアとの間で増援部隊の護衛に任じた。
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高速輸送艦
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1942年(昭和17年)8月以降のガダルカナル島の戦いにおける日本軍は、アメリカ軍制空権下での輸送作戦を強いられ、低速の輸送船団はアメリカ軍機によって次々に撃沈された(第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦等)。このため高速の駆逐艦による輸送作戦(鼠輸送)が実施されたが、輸送船と比較すると駆逐艦が揚陸できる物資量は極めて少なかった。1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)および輸送船8隻を撃沈された第八艦隊は、海軍艦政本部へ幾つかの提言を行う。その中で『四.高速小型輸送船(差當リ駆逐艦巡洋艦ノ改装ニ依リ)ニ依リ輸送力強化ヲ要ス』と訴えている。このような要望に応える形で、最前線での輸送・揚陸任務をおこなう高速小型輸送艦(第一号型輸送艦と二等輸送艦)が登場した。同様に既成艦の改造も検討され、北上、大井の場合は以下のような計画だった。 魚雷発射管は2基のみ残置(8基撤去)、14㎝主砲は全部撤去して12.7㎝連装高角砲2門を装備、従来の艦橋を撤去して艦前方に新造艦橋を設置、輸送物件積み下ろし用のクレーンを装備、第一罐室と前部機関室を輸送物件格納庫へ回収、大発動艇数隻と輸送物件約300トン可能という予定である。だが工程数万、工事期間最少5ヶ月と試算されたため、2隻を本格的に高速輸送艦へ改造する計画は断念された。それでも魚雷発射管を撤去して大発動艇を搭載するなどの小改造は随時実施された。
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