超弩級戦艦
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なお、この「弩」は「ドレッドノート」の頭の音を取った当て字である。そのため、超ド級戦艦とカタカナ表記する場合もある。戦艦の「超弩級」「超ド級」という語は、転じて「とてつもなく大きい」「もの凄い迫力」などを表現するためにも使われる[注 1][2]。
概要
最初の超弩級戦艦とされるのは、1910年に進水したイギリス海軍のオライオン級戦艦である。この艦の起工後にマスメディアに情報が漏れてしまい、ドレッドノートよりも大型(13.5インチ/34.3 cm)の砲を搭載していたことから、報道機関がSuper Dreadnoughtsと表現したことに端を発する。
従って正式な軍事用語というよりは、マスコミ用語が起源である[3]。日本の文献においては1911年(明治44年)1月発行の『英国海軍協会年報』(アラン・バーゴイン著・藤井光五郎訳)文中で「超『ド』級戰艦」と書いて「スーパー、ドレツドノート」と読ませる例[4]がみられるのを皮切りに、類似の表現が広く使われるようになり、さらにこれを踏まえた表現として、15インチ(38.1 cm)-16インチ(40.6 cm)砲を搭載した戦艦を超々弩級[注 2]、18インチ超(46 cm)主砲を採用した大和型戦艦規模のものを超々々弩級戦艦[注 3]と呼ぶ例もみられるようになった[9]。
現在、超弩級戦艦は「弩級」すなわちドレッドノートと同程度の戦力を有する戦艦をさらに上回る戦艦、と定義されており、12.0インチ(30.5 cm)を上回る主砲口径の戦艦を指す。すなわち「戦艦主砲の世界的標準規格("the international standard of battleship calibre"[10])である12インチ」を超えることが絶対条件であり、弩級以前に例外的に建造された少数の12.0インチを超える口径の主砲を有する艦はこれに該当しない(たとえば近代戦艦の原型とされるロイヤル・サブリン級戦艦は、13.5インチ砲を搭載する。だがこの砲は後に前弩級戦艦の標準となる12インチ砲よりも威力的に劣っている)。
それ以外の超弩級戦艦に共通する特徴は、主砲の中心線配置・舷側砲塔の廃止が挙げられる。これにより防御様式が大きく改善された。また全主砲を片舷に指向できるようになった。ただしこの特徴自体は他国の弩級艦にもそれ以前から採用例がある。
これらの特徴から、従来存在する弩級艦を大きく上回る戦闘力を具備し、戦艦の世紀は新時代へ突入した。
とはいうものの、戦艦の能力の評価には、速力や防御力などのファクターをも考慮すべきであり、単純に火力だけをもって優劣の判断はできない。さらに火力にしても、砲身長、命中率、門数、単位時間あたりの発射数を考慮すべきであり、口径だけの比較で判断はできない。例えば主砲の門数については、イギリス戦艦エジンコートは12インチ砲を搭載する弩級戦艦であるが、門数は14門と世界最多であり、総合的に見て火力は13.5インチ - 14インチ砲8門の超弩級戦艦・巡洋戦艦を上回っている。ただしエジンコートは方位盤射撃指揮装置を装備しておらず、実戦能力には疑問がある。
超弩級戦艦が軍事史上で重要視されるのは、それに分類される戦艦の能力自体よりも、それまでの弩級戦艦の多くが12インチで統一され、戦艦の隻数や主砲の門数が海軍力の一つの目安となっていた時代を終焉させ、大艦巨砲時代への道を開いたという点である。それまでは戦艦1隻1隻の大きさや性能が各国とも比較的似通っていたため、海軍力は単純な数量で比較されることが多かったが、超弩級艦の登場以後は主砲口径と艦の大きさの制限が取り払われ、各国が持つ最強の戦艦の性能が重要な要素となった。
例外的存在
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ドイツ戦艦においては、弩級艦の主砲に11インチ(28.1 cm)砲を採用しており、これはイギリス戦艦の12インチ砲に威力で匹敵するとされていた。実際にも砲弾重量や初速などの性能を見る限り、ドイツ戦艦の主砲弾の運動エネルギーは、英国戦艦のそれを凌駕している(砲弾重量は小さいが、初速は大きい)。従ってドイツがヘルゴラント級戦艦に12インチ(30.5 cm)50口径砲を採用した際は、実質は超弩級戦艦ではないかと言われた。
しかし異論も多い。ドイツが多用した小口径高初速の砲弾は、接近戦での威力こそ高いものの、中距離では入射角の浅さから、長距離では失速の大きさからイギリス系の超弩級戦艦に採用された45口径13.5インチ砲や45口径14インチ砲に威力で劣っているとされる。また、接近戦での威力に限定しても、ドイツの12インチ砲の威力はイギリスのそれを上回ってはいるものの、それほど大きな差は見られない。むしろイギリスがドイツに先だって開発した50口径12インチ砲は、ドイツの50口径12インチ砲を初速でも若干凌駕している。もっともイギリスの50口径12インチ砲は命中率の低下や砲身寿命の低下を招いた欠陥砲であったが、ドイツの50口径12インチ砲にはそうした欠陥は見られず、ドイツに技術的優位があったのは事実である(逆に言えば、イギリスの50口径12インチ砲の失敗が、13.5インチ砲の開発を促進させ、超弩級戦艦への道を開いたと言える)。
イタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦は、改装後の主砲口径が32cmであり30.5cmを超えているが、元は30.5cmの主砲の内径を削って口径を拡大したに過ぎず、これを超弩級と扱うかどうかには異論もある。しかし、威力は14インチ砲に迫る性能が出ている。
その後
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1916年のユトランド沖海戦は、戦艦・巡洋戦艦の発達史において一大事件となった。かいつまんで述べると、戦艦は速力が不足、巡洋戦艦は防御力が不足、そして戦艦・巡洋戦艦を問わず水平防御をなおざりにしてきた事実が判明した。これ以降に新造、もしくは改装がなされた戦艦・巡洋戦艦はこの欠点の改善がなされ、主砲口径の増大に偏った戦艦の発達は終焉を迎えた。これにより弩級、超弩級というカテゴライズも、さほど重要なものではなくなった。
例えばアメリカのアラスカ級大型巡洋艦(主砲口径30.5cm)やドイツのシャルンホルスト級戦艦(主砲口径28.1cm)は、主砲口径で言えば弩級、フランスのダンケルク級戦艦(主砲口径33cm)は超弩級となるが、そういう分類で語られることはほとんどない。
上記の通りイタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦は、超弩級として語られることもあるが、これは元々この両クラスは30.5cm砲採用の弩級戦艦であって、改装によって砲力が増したかどうかという文脈で語られるからである。コンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦が主砲口径を増したのは、あくまで門数の削減と引き換えに砲力を落とさないための処置である。両クラスの改装の主目的は、速力と防御力の増大である。
脚注
注釈
- ^ 古くは『工学会誌』1911年(明治44年)11月号で太刀川平治が寄せた論文「高壓送電の槪况」の中に、従来ある5万5千ボルト級の水力発電所を「電力界のド級戰鬪艦」に例えた上で、現在猪苗代水力電気会社が計画している10万ボルト級の水力発電所を「超ド級戰鬪艦とも稱すべき」と表現した例[1]などがみられる。
- ^ 一例として1917年(大正6年)2月発行『大正青年及青年団講話』(中村徳五郎著)の文中で戦艦クイーン・エリザベスを説明する際の「十五吋砲󠄁八門を主砲とし(中略)即ち實に超々弩級戰艦の鼻祖󠄁と稱せられてゐる」[5]という表現や、1919年(大正8年)8月発行『海国日本』(溝部洋六著)に掲載されたイギリス軍艦一覧表での「呼稱/超、超弩級艦」表記[6]など
- ^ 一例として1943年(昭和18年)3月発行『海戦の変貌』(七田今朝一著)文中の「この大艦巨砲主義、超々々弩級戰艦の建造へ拍車をかけることゝなる傾向」[7]や、1953年(昭和28年)12月発行『秘録大東亜戦史 開戦篇』文中の「主砲十八吋、二連装八門、四万七千五百トンという超超々弩級戦艦」[8]という表現など
出典
- ^ 『工学会誌 (345)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 2』講談社、2003年。
- ^ 海人社 世界の艦船 増刊 近代戦艦史
- ^ 『英国海軍協会年報 本編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『大正青年及青年団講話 : 人格修養』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『海国日本』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『海戦の変貌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『秘録大東亜戦史 第11』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 新名丈夫、1979、「陸奥の爆沈」、『日本海軍史』、毎日新聞社〈別冊一億人の昭和史〉 p. 258
- ^ 『U.S. Battleships』(Norman Friedman)より
関連項目
外部リンク
超弩級戦艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:05 UTC 版)
詳細は「超弩級戦艦」を参照 ドレッドノート就役後5年、まだその就役中に、より強力な新世代の「超弩級戦艦」が出現し始めた。超弩級戦艦はイギリスのオライオン級戦艦に始まる。この艦の起工後にマスコミに情報が漏れてしまい、新聞記者がこれを「超弩級戦艦」と呼称したのが始まりであり。従って正式な軍事用語というよりも、マスコミ用語というべきものである。それらを「超」をつけて呼ぶのは、一気に2,000トンにおよぶ排水量の増大、より大きな13.5インチ (343 mm) 砲の導入、そして全主砲の中心線上配置などの特徴に基づく。ドレッドノートからオライオンまでの4年間で排水量は25%増加し、舷側砲火の砲弾重量は2倍となった。 イギリスの超弩級戦艦にはまたしても他国が追随した。1911年起工のアメリカ海軍のニューヨーク級は、イギリスにおける13.5インチ (343 mm) 砲を凌駕すべく、14インチ (356 mm) 砲を搭載した。日本では1911年起工の金剛型巡洋戦艦4隻、1912年起工の扶桑型超弩級戦艦2隻と、それに続く1914年の伊勢型2隻に14インチ (356 mm) 砲12門を搭載した。同じくイギリスにおける13.5インチ (343 mm) 砲の凌駕と、近い将来登場が予想される15インチ (381 mm) 砲に準ずる能力を目論んでのものである。金剛型に関しては1番艦を輸入したものの、続く3隻は国産、扶桑型以降は設計も含めて日本で行われた。フランスでは、クールベ級に、340 mm砲を搭載したプロヴァンス級超弩級戦艦が続いた。それに続くノルマンディー級戦艦5隻は、第一次世界大戦の勃発にともなってキャンセルされた。ドイツ海軍では、自軍の12インチ50口径砲はイギリスの13.5インチ45口径砲に匹敵すると考えていたため、対応して砲の口径を増大させる動きはなかった。 イギリス超弩級戦艦の後期艦(クィーン・エリザベス級戦艦以降)は砲塔の数を1つ減らしたため、それによって生じた重量と容積の余裕がより大きな石油専焼ボイラーの搭載に回された。新しい15インチ (381 mm) 砲は砲塔の減少にもかかわらず砲の火力を増大させ、また装甲帯の増厚と水中防御の改善に繋がった。このクラスは25ノットの設計速力を有し、世界最初の高速戦艦と考えられている。 初期の超弩級戦艦の、第一次世界大戦後の設計と異なる弱点は、装甲の配分であり、短距離戦闘で必要とされる垂直防御に重点を置いていた点であった。これらの艦は20,000ヤード (18,300 m) で交戦することも可能だったが、そのような遠距離から飛来する高い角度の「落下してくる」砲弾に弱かった。大戦後の設計では、それに対抗して5ないし6インチ (127-152 mm) の厚さの装甲甲板を設けることが一般的となった。重点防御区画の概念は、その後の戦艦設計の中心課題となった。また、魚雷の脅威が現実的なものとなってきたことにより、水中防御の不足も、これら第一次世界大戦前の設計の弱点と認められた。 アメリカ海軍の「標準型」戦艦は、長距離砲戦と大落下角の砲弾を念頭に置いたネバダ級戦艦から始まった。1番艦の起工は1912年、ヨーロッパ諸国海軍が遠距離砲戦の危険を知ることになるユトランド沖海戦の4年前のことだった。標準型戦艦の重要な特徴は「オール・オア・ナッシング」の集中防御装甲と「浮体」構造であった。その設計思想は、船の重要部分だけにきわめて厚い装甲で施し、この装甲された浮体部分に、装甲のない艦首・艦尾部分が撃ち抜かれ、浸水しても船全体が浮かんでいられるだけの十分な予備浮力を持たせるというものだった。この設計の価値は第3次ソロモン海戦で証明された。この海戦で戦艦サウスダコタは回頭のタイミングを誤り、日本艦隊の砲に側面をさらした。そして重砲弾26発の命中を受けたが、装甲された浮体部分は破壊されず、戦闘の最後まで、沈むことなく、行動を続けることができた。 1917年に発注された長門型戦艦には世界で初めて16インチ (41 cm) 砲が搭載され、世界最強の戦艦となると考えられた。ワシントン海軍軍縮条約において日本は長門型2隻の保有が認められたが、引き替えとしてアメリカはコロラド級戦艦3隻を16インチ (40.6cm) 砲へ換装しての建造続行、イギリスは同じく16インチ砲搭載のネルソン級戦艦2隻の新造が認められた。
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