設計思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:50 UTC 版)
軍人の子として生まれ、決して裕福な家庭ではなかったが、小学5年で美術に目覚めた。家系には美術の天分があったとしている。師範大付属高でも自身は他の多くの生徒同様、美術教師を志していたが、クラスで建築家を目指していた1人の同級生に影響を受けてクラスでは美術教師にも建築系の指導、試験を求めるようになった。 当時の台湾の大学で建築学部を設けていたのは成功大学だけだった。高校での美術指導が功を奏してか、同年に成功大学建築学部に合格した50名のうち、師大附属出身者は李を含めて5人を占めた。 大学では1年生から4年生まで一つの大家庭のような校風で昼夜を問わず学内のアトリエでデッサンに明け暮れて、収穫が多かったという。 青年時の李はスイスの建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)を「建築作品は芸術家としての才気に溢れ、歴史を変えた一人であり、現代建築史の偉大な人物」と評し、自身の手本にしていた。 台湾に帰国後も「中国文化を知らずして、中国人の建築を設計することはできない」として、『中華建築』の思考を深めていく。中国の代表的思想家の牟宗三に入門し、儒学、仏学、老荘思想を学んで「最高の文化は宗教にほかならない」という境地に辿り着く。 中華と西洋の文化をぶつけあった成果物として「東王漢宮」や「大安国宅」を生み出した。李は「屋上部に中国古代建築の屋根を置いてみた」と語っている。宏国大楼(1989年)は李が「自己の中国建築意識を作品に反映できた」と初めて自認できるものとなった作品で、儒学に則った左右対称の外観と、天・地・人の三者の関係を物語る形状で、中国建築がもつ特色を「形式化」から「概念化」へ変えることを試みたという。 一方で21世紀になってからは雑誌『EGG』と国内の若手建築家が選定する『台湾で最も醜い建築物』に李の作品が数件ランクインするなど、世代の違いとはいえ不名誉な評価もある。
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