たいかんきょほう‐しゅぎ〔タイカンキヨハウ‐〕【大艦巨砲主義】
【大艦巨砲主義】(たいかんきょほうしゅぎ)
海上戦では巨大で厚い装甲と大きな主砲を持つ戦艦がもっとも重要である、という軍事思想。
大航海時代から1940年ごろまで、世界の海軍における戦略・戦術の主流であったが、第二次世界大戦で、艦載機による艦艇への攻撃のほうがより効果があることが判明すると徐々に衰退し、大戦後には通用しない思想となった。
結果論として、現在では大型の艦船は航空機による攻撃に脆弱であったと大艦巨砲主義を非難する意見が多いが、当時としては圧倒的多数の常識的な考え方であり、必ずしも時代に遅れていたとは言いがたい。
関連:航空主兵主義 艦隊決戦
大艦巨砲主義
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大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦隊決戦による敵艦隊撃滅のため大口径の主砲を搭載し重装甲の艦体を持つ戦艦を中心とする艦隊を指向する海軍軍戦備・建艦政策および戦略思想[1]。巨砲大艦主義、巨艦巨砲主義、巨砲巨艦主義、大艦大砲主義とも言う。
概説
背景
13世紀後半ごろ手持ちのハンドキャノンがガレー船で使用された[2]。14世紀に入ると大型の鉄製カノン砲3門がイギリスの軍艦に艦砲として搭載された[3]。
西欧では15世紀に外洋航海能力を持つ帆船キャラック船などが開発され大航海時代が始まった。15世紀末にはコロンブスがアメリカ大陸を発見しヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインドに到達した。 西欧の帆船の優れた航海能力と艦砲の威力によりイスラムの艦隊を打ち負かし、インド洋から東南アジアにかけての制海権を確立した。16世紀にはガレオン船が開発され西洋の海洋技術は更に発展する。イスラム圏は絶望的に遅れてしまい時代が進むにつれ西洋との格差はさらに開いていった[4]。16世紀半ばにポルトガル船が日本の種子島に漂着し日本への航路が発見される。
その後、帆船の大艦巨砲化は進み100門以上もの大砲が搭載可能な戦列艦が開発された。世界の海洋と物流は大半が西欧列強の支配するものとなり、莫大な富と資源と情報と労働力が西洋に集中し17世紀に科学革命が起こり近代科学は西欧を中心に発達し、18世紀半ばから19世紀にかけて産業革命が起こった。
19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって大型で高速の艦艇が作れるようになり艦砲も大型化し威力も増大した。大艦に大型砲を多く搭載する考えが世界の主要海軍国で支持されていた。日本では日清戦争のころに“大艦巨砲主義”が芽生えた[5]。
日露戦争の戦訓により画期的な戦艦ドレッドノートがイギリスで誕生し以後の戦艦設計の範となった。その後、主砲、装甲、射撃管制装置などの発達により戦艦はいっそう大型化し超弩級戦艦が開発されるに至った。
第一次世界大戦後の軍縮条約により戦艦の建造は一時停止した。その後日本は条約を脱退し最大級の大艦巨砲艦を建造し西欧列強に挑戦した。第二次世界大戦の終結により大艦巨砲の時代は終了した[注 1]。
思想の変遷
19世紀末のイギリスでは41.3cmの大口径砲を搭載するヴィクトリア級戦艦が竣工するなど海軍の大艦巨砲化は一層進んだ。
強力な戦艦に対し19世紀半ばのフランスにおいて「青年士官派」(青年学派)と呼ばれる海軍戦術理論家グループが台頭してきた。「優勢なイギリス海軍の戦艦に対抗するために、フランスは高速水雷艇を主力とすべき。戦艦1隻の建造費で水雷艇を60隻建造できる。新開発の魚雷を使用すれば戦艦の撃沈が可能である」という主張であった。1861年5月と6月の演習では20隻余の水雷艇により戦艦8隻の大半が撃沈と判定された。これにより大型艦による近接封鎖が不可能であると証明された。
フランス共和国議会は1881年に戦艦の建造を一時停止し70隻の水雷艇を建造する予算を可決した。「青年士官派」の領袖のH.L.T.オーブ提督が海軍大臣に就任すると更に水雷艇100隻の建造計画を可決させた。当時イギリス戦艦の主砲は大口径大威力だが発射速度が遅く、高速で操作性に優れた小艦艇への対処は困難でありイギリス海軍にとっては真に脅威であった[7][注 2]。
高速水雷艇と魚雷の発明により「戦艦無用論」が盛んになったが、イギリス政府は1881年に高性能の速射砲を募集し米ホチキス社やスウェーデンのノルデンフェルト社の砲を副砲として採用した。またイギリスのエルジック社は高い発射速度を持つ4.7インチ砲および6インチ砲を開発し1887年より各艦に搭載され[9]、さらに水雷艇駆逐艦が1892年より計画建造された。
1887年にアルフレッド・セイヤー・マハンは米海軍大学校で講義を行い、米海軍の伝統的考えは沿岸防衛と商船護衛だったが「米海軍の主目的は敵海軍であり、制海権保持のためには何より戦艦が必要で、従来の防衛的な巡洋艦中心は改めるべきだ」とした[10]。1890年には『海上権力史論』が刊行され各国で評価研究された。
1914年6月にイギリスのパーシー・スコット海軍中将は「タイムズ」紙で、多数の潜水艦と少数の巡洋艦による海軍を提唱し戦艦の建造計画に反対した。敵戦艦の陸上砲撃、封鎖、船団護衛、艦隊戦、などの任務は潜水艦で妨害できるためである[11]。
第一次世界大戦が勃発し1916年のユトランド沖海戦でイギリスとドイツの弩級戦艦・超弩級戦艦による砲戦が発生し装甲薄弱な巡洋戦艦の爆沈が相次いだ。それまで戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協していたが、そのような設計の問題点が明らかになった。各国の大艦巨砲主義は一層強まり[12]、速力と防御力の向上を追求した高速戦艦(ポスト・ジュットランド戦艦)が建造された。
同時にドイツは海上において通商破壊を強化、特に制海権を確保するための潜水艦を用いた無制限潜水艦作戦を実行、これは海戦のあり方をかえるものだったが、イギリスは護送船団で対抗した。
大陸では塹壕戦により膨大な犠牲を出しながらの膠着状態が続いたが、海上のイギリス戦艦群などによりドイツは海外との貿易が絶たれ経済的に崩壊しかねない状況に追い込まれてしまい、国内の飢餓と海軍の反乱によりドイツは停戦に応じた。戦後、ドイツ敗北の最大の原因は英国海軍による海上封鎖であることが確認された[13][14]。
戦後、巨大戦艦の建造競争が日米英で始まるが1921年開催のワシントン海軍軍縮条約により戦艦の建造は一時停止された。
アメリカ陸軍のウィリアム・ミッチェルは空軍独立論と戦艦無用論を提唱しており1921年7月に大規模な爆撃実験を行い標的である静止状態のドイツ戦艦を撃沈した。
日本海軍の1939年(昭和14年)の昼間雷撃訓練では、艦攻30機、陸攻36機による演習魚雷64本が、目標の戦艦戦隊に対し命中49発を記録した[15]。これにより航空機で敵戦艦部隊を撃滅することが可能であることが実証された。井上成美は1941年(昭和16年)1月に陸上攻撃機による雷撃を中心とする「新軍備計画論」を海軍大臣に提出した。
太平洋戦争が勃発すると真珠湾攻撃で停泊中の米戦艦4隻が着底しマレー沖海戦では英戦艦2隻が撃沈された。これにより航空主兵論が台頭し、空母の優位性が強調された。
優勢なアメリカ海軍は戦艦による艦隊決戦を望み[要出典]、空母を主力としてマリアナ沖海戦[注 3]やレイテ沖海戦が行われ、戦艦部隊を前面に出し[要出典]一部では戦艦同士の砲戦も行われた。
日本海軍は大和型戦艦という最大の大艦巨砲艦を建造しながらも有効に使うことはできなかった。
歴史
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近代以前の軍艦
15世紀の大航海時代でアフリカ、南北アメリカ、オーストラリア大陸の先住民たちは西欧人の火砲に対し有効な対処法を持たなかった。ヴァスコ・ダ・ガマは1502年の航海でインドのカレクト王国(コーリコード)に到着し、商船を襲撃略奪し、市街地に砲撃を加え、攻撃してきたカレクト艦隊を撃破し帰国した。1509年2月3日にディーウ沖の海戦でポルトガルは勝利しインド洋の制海権を獲得した。
当時の西欧の帆船にはカルバリン砲が搭載されており敵船の甲板上や砲蓋を砲撃し敵兵を殺傷した。16世紀末にはより強力なカノン砲が搭載され敵船の舷側や帆柱を破壊することが可能となった[17]。 西欧は砲の数だけでなく製鋼技術も優っており1571年10月7日のレパントの海戦でイスラム軍から奪った215門の青銅砲は「金属の質が極めて悪く」使用できず、すべて溶解して素材として使われた[18]。船の防御については産業化以前の装甲艦などの先例がある。
日本においては織田信長が天正6年(1578年)に建造した7隻の鉄甲船が最初期の大艦巨砲である[注 4]。慶長18年(1613年)には仙台藩の伊達政宗が西欧式のガレオン船であるサン・ファン・バウティスタ号を建造し慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した。その後、江戸幕府は鎖国の方針に移行し日本の大艦巨砲化は途絶えた。
1840年にイギリスと清国によるアヘン戦争が勃発し、イギリスは2隻の戦列艦ウェレスリー号(砲72門)やブレンハイム号(砲74門)を含む軍艦16隻を派遣したが清国海軍のジャンク船は弱体で小型のネメシス号(660t、砲2門)に容易に撃破された[注 5]。
日本は嘉永6年(1853年)の黒船来航により開国した。文久3年(1863年)には下関戦争や薩英戦争が勃発し、日本の砲台は破壊され船舶が沈み市街地が焼かれるなど列強の軍艦により多大な損害を受けた。
西欧では大砲技術が発達し艦砲で撃沈が可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。そのため砲数を減らし、1門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施すこととなり、装甲艦の時代となった。技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。戦列艦から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・造船技術の進歩にしたがって軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型の偵察などを目的とする巡洋艦へと分岐した。
近代的戦艦からドレッドノート(弩級戦艦)まで
近代的装甲艦が使用された最初の戦いは明治27年(1894年)の日清戦争における黄海海戦であった。日本は予算不足から戦艦を購入することができず艦隊旗艦は防護巡洋艦の「松島」だったが、大国であり日本に対し経済力で優っていた清国は東アジア最強の北洋艦隊を編成し、ドイツから当時最大級の定遠級戦艦2隻を購入した[注 6]。
この海戦で日本艦隊は優れた戦術運動と兵の高い戦意により多数の命中弾を与えた[注 7]。旗艦[[定遠 (戦艦)|定遠]は159発の命中弾を受けたが厚い装甲により損害は最小限であったが弾薬不足と他の艦艇の損害のため退却した。日本の旗艦「松島 (防護巡洋艦)」は鎮遠の主砲弾により装薬が誘爆し多大な犠牲を出した。戦艦の厚い装甲と巨砲は深刻な脅威であった。
近代戦艦の始祖とされるのはロイヤル・サブリン級戦艦である。なお、1895年から順次竣工したマジェスティック級戦艦が、30.5 cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ前弩級戦艦の基本形を確立した。
日露戦争において1904年8月10日に世界初の近代戦艦同士の海戦である黄海海戦が発生した。同海戦で損傷したロシア戦艦「ツェサレーヴィチ」が青島に入港し武装解除された。英国は同艦の被害状況を調査した。また日本の同盟国であり指導的立場であった英国海軍は観戦武官を派遣しており日本海軍の作戦や戦備について詳細な情報を得ていた。これにより「主力は戦艦、主砲は大なるを要す、厚い装甲と優速が必要、砲戦距離は1万メートル以上、衝角(ラム)は不要、戦艦の最大の沈没原因は火薬庫の爆発」などの戦訓を得た。
イギリス海軍は同海戦直後に極秘の「設計委員会」を設置し{{Efn2|設計委員会のメンバーは着想者のフィッシャー提督、バッテンバーグ公(少将)、ジェリコー、マッデン、ベーコンなど、第一次大戦の主役を果たした名提督が並び、技術部門ではフィリップ・ワッツ造船官、ロード・ケルヴィン教授、バイルス教授、ジョン・ソーニクロフト、フルード造船官など、近世造船学や理学に不朽の名を残した人物がつらなっていた[注 8]、1905年春に戦艦「ドレッドノート」の設計が完了した[注 9]。 そして世界の海軍を一挙に引き離すため、ポーツマス工廠では他の工事を全て中止し、極秘裏に起工し記録的短期間で同艦を完成させた。
こうして1906年に竣工した「ドレッドノート」は、従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。そのためこれ以後世界の海軍は「ドレッドノート」を基準とし、これらを弩級戦艦と称する[注 10]。
第一次世界大戦と超弩級戦艦

ドレッドノートが1906年に竣工したのに対しドイツは遅れ1909年から1910年にかけてナッサウ級戦艦4隻を竣工させ弩級戦艦の建艦を始めるが、1912年にイギリス海軍はオライオン級戦艦を竣工させ超弩級戦艦の時代へと進めた。1914年7月28日に勃発した第一次世界大戦においてイギリスは超弩級戦艦23隻と超弩級巡洋戦艦6隻を保有した[注 11]が、ドイツは大幅に立ち後れ超弩級艦はバイエルン級戦艦2隻が完成しただけであった[注 12]。
世界大戦の勝敗が決定された日について多くの歴史家は「躊躇なく1914年8月2日を挙げるであろう」[13]。この日、イギリス海軍大臣ウィンストン・チャーチルが海軍動員令を発した。 開戦直後の時点でドイツの敗北は確定的であった。イギリス海軍の海上封鎖によりドイツ国内は食糧物資不足に陥る。国際法上、中立国商船のドイツ入港は認められ最低限の物資は届いていたが強力なイギリス戦艦群を打ち破り海上封鎖を打破できる見込みは無く陸上では先の見えない塹壕戦が続いていた。
追い詰められたドイツは1917年2月に潜水艦Uボートによる無制限潜水艦作戦を実施したが[注 13]、英国の護送船団方式の採用と護衛艦隊の対潜戦技術の進歩[注 14]によりドイツ海軍の計画は破綻した。さらにアメリカも参戦し、加えて戦時下でも中立国の商船に一定の権利を与えていた「ロンドン宣言」{{Efn2|「1908年12月よりロンドンで開催された10ヵ国主要海運国会議」[22]は破棄されドイツへの海上封鎖は徹底された。
ドイツの選択肢は「衰弱しつつ国家崩壊」か「絶望的な決戦を挑む」の2つであった[23]。1918年10月末にドイツ海軍は「死の航海命令」と呼ばれるイギリス艦隊との決戦を命令した[注 15]。しかし10月29日にキール軍港で水兵1000名が出撃命令を拒否し11月4日には反乱が組織化(キールの反乱)されドイツ革命に発展し11月11日の休戦条約により世界大戦は終結した。
第一次世界大戦を終結させた中心的な役割の兵器はイギリス海軍の超弩級戦艦群であった[注 16]。大戦後は日本の八八艦隊やアメリカのダニエルズ・プランによる超弩級戦艦の建艦競争が加速したが1921年のワシントン軍縮会議におけるワシントン海軍軍縮条約締結により中止(海軍休日)された。
第二次世界大戦と条約型以降の戦艦
「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によって海戦ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、巡洋艦や駆逐艦などの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力の海防戦艦と呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。この時期の戦艦は大戦後の核兵器と同様の戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。
欧州で1928年8月に起工されたドイッチュラント級装甲艦により建艦競争が始まり、ドイツ、フランス、イタリアは同国史上最大級の38cm砲戦艦を建造し[注 17]、さらに40㎝砲戦艦のプランも有ったが大戦勃発により中止された。
1934年12月に日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し1936年1月15日にはロンドン海軍軍縮条約も脱退した。アメリカは日本に対抗するため40.6cm砲戦艦の建造を開始した。
日本海軍は1930年代初頭から条約破棄の方針であり[注 18]秘密裏に46cm砲の研究を進めていた[注 19]。当時の水上艦は水平線の向こう側の敵艦に対する攻撃手段を持ちえなかった。そこで観測機の射弾観測によるアウトレンジ戦法が研究され大和型戦艦が建造された[注 20]</ref>。

ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦ダンケルク級(1937年竣工)以降、第二次世界大戦終結までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。
そして、大戦中にアメリカのアイオワ級戦艦が4隻就役し、戦後に完成したイギリスの「ヴァンガード」とフランスの「ジャン・バール」を最後に、新たな戦艦は建造されていない。
ドイツと英国およびソ連
1940年6月14日、ドイツの電撃戦によりフランスの首都パリが陥落した。ドイツは英国に対しては和平を希望していた{{Efn2|「独英和平を期待していたヒトラー」[28][注 21]。 また様々な工作を実施した[注 22]が成功しなかった。
1940年8月より10月にかけてドイツは英独航空戦・バトル・オブ・ブリテンを始めたが[注 23]が失敗した。
ドイツは英国海軍の海上封鎖を受け国民生活の困窮が始まっていた[注 24]。欧州の大半を支配したが海を通じた全世界へのアクセスが閉ざされているため、ドイツは大陸の西端の一角に閉じ込められた状態であった[注 25]。 1941年5月10日、元ナチス副総統ルドルフ・ヘスがBf110でイギリスに飛び立ち和平交渉を申し出たが拘束された[注 26]。
ソ連からは、農作物、鉱物資源、石油などが供給され、さらに英国の海上封鎖の抜け穴としてソ連船により日本、満州、アフガニスタン、イランなどの物資が送り届けられていた。しかし不十分であった[注 27]。ソ連攻略に成功すれば膨大な領土・物質的/人的資源が得られるはずであった
1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が勃発する。しかしドイツ軍の電撃戦はモスクワ手前で停止し、以後、国力差によりソ連軍に圧倒されていった。
日本と米国
第二次世界大戦における日米の保有戦艦数は以下の通り。
- 日本 - 金剛型4隻、扶桑型2隻、伊勢型2隻、長門型2隻、大和型2隻(計12隻)
- 米国 - ワイオミング級戦艦1隻、ニューヨーク級戦艦2隻、ネバダ級戦艦2隻、ペンシルベニア級戦艦2隻、ニューメキシコ級戦艦3隻、テネシー級戦艦2隻、コロラド級戦艦3隻、ノースカロライナ級戦艦2隻、サウスダコタ級戦艦4隻、アイオワ級戦艦4隻(計25隻)
日本は仮想敵国である米国の主力艦と大きな数的格差があったこととパナマックスによる制限を鑑みて大和型戦艦(「大和」と「武蔵」)を建造した[33][34]{{Sfn|[35]。
開戦に際し海軍中央(軍令部)は南方資源地帯の確保後にマーシャル諸島での艦隊決戦を想定していたが山本五十六は反対し[注 28]、正規空母6隻の第一航空艦隊による真珠湾攻撃を承認させた[注 29]。第一航空艦隊は、真珠湾、南方作戦、インド洋作戦などで大きな成果を挙げた。しかし海軍の主流は戦艦主兵であり、航空隊は補助兵力としての地位を高めただけで有った[36]。その後山本五十六が強硬に主張[注 30]したミッドウェー海戦で空母勢力は壊滅した。翌月、第一航空艦隊は解体され第三艦隊として再編された。
日本海軍は基地航空隊支援の下での艦隊決戦を企図した[注 31]。1942年2月より陸上攻撃機による米戦闘艦への爆撃が始まり{{Efn2|1942年2月4日陸攻60機によりABDA艦隊を空爆、2月12日にも陸攻27機が同艦隊を爆撃。2月15日には陸攻67機と空母機26機による爆撃[注 32]、5月からは航空雷撃が実施された[注 33]。しかし戦果はほとんど無く[注 34]、陸攻隊は未曾有の大損害を被っていた[注 35]。海軍航空隊が撃沈した米巡洋艦はシカゴだけであり[注 36]、さらに大型で強力な米戦艦を基地から離れた洋上で航空機により撃沈することは遂に不可能だった[注 37]。
日本機はラバウルから約1000km離れたガダルカナル島および付近の米艦隊に対し空襲を仕掛け、米空母機は防空戦に終始した[注 38]。戦艦は主砲射程が30,000メートルを超え、その威力は陸上機や空母機に比べ遙かに強大であった[42]。しかし陸攻や艦攻は敵艦に対し距離1000mまたは数百mまで接近して魚雷を投下する必要があった。米軍の5インチ高角砲の射程は10,000m以上でありMk.37 GFCSに制御され高い射撃精度が発揮された。さらにボフォース社製40mm機関砲の有効射程も4,000mに達し、陸攻隊は魚雷投下前に一方的に撃たれ多数が撃墜撃破されていた[注 39]。
日本海軍航空隊の損害の一部は敵戦闘機による[注 40]が、大部分は米艦隊の対空砲火によるものであった[注 41]。日本軍は1943年2月7日までにガダルカナル島から撤退し日本軍の攻勢は終了した。
米国の開戦前の基本戦争計画はマーシャル諸島およびカロリン諸島を攻略しトラック島に前進基地を設置するというものであった[注 42][注 43]。山本はオアフから出撃した米艦隊に対し攻撃に向かうであろう。これにより日米戦艦による激しい艦隊決戦が予想された[注 44]。しかし真珠湾攻撃により戦艦の日米比率は逆転し米海軍の策定していた計画は実施不可能となりハズバンド・キンメル提督は更迭された。
米海軍トップのアーネスト・キングは1942年2月5日、米本土西岸の戦艦6隻ほか艦隊で日本軍を攻撃することを命じたが太平洋艦隊のチェスター・ニミッツは反対した。撃沈されてしまうことが歴然としていたからである[注 45]。
アーネスト・キングは可能な限り早く太平洋で攻勢を掛けようとした。遅れるほど日本軍の戦力は充実し太平洋の島々の防備が固められ米軍は多大な犠牲を強いられるからである。しかし日本海軍は依然として強力な存在と認識されており反対意見が相次いだ[注 46]。 1943年5月12日にワシントンで第三回米英参謀会議が開かれキングは中部太平洋作戦の開始を熱心に主張した。ここで遂にギルバート、マーシャル攻略作戦が承認され同年11月15日に実施されることとなった。
日本艦隊はトラック諸島に集結しており、米艦隊によるギルバート、マーシャル侵攻が有れば直ちに迎撃し艦隊決戦を挑む計画(Z作戦)であった。
1943年10月15日、ニミッツはガルヴァニック作戦を発動し、これにより新型戦艦5隻、旧型戦鑑7隻、艦隊型空母6隻を含む大艦隊がギルバート諸島攻略に向けて出撃した[注 47]。
しかし日本艦隊が艦隊決戦を挑んでくることは無かった。それまでの航空戦により空母機が壊滅状態であったためである。陸攻隊が出撃しギルバート諸島沖航空戦により空前の大戦果が報告された[注 48]。実際には米軍に被害はほとんどなく、誤った情報しか得られない日本海軍は有効な作戦計画を立てることができず、以後日本軍の計画は崩壊していった。
米海軍は1944年2月、日本海軍最大の根拠地トラックを攻撃し壊滅的打撃を与えた。これにより日本海軍の洋上迎撃作戦は破綻し日米の艦隊決戦が実現することは遂に無かった。
アメリカ側の戦艦は、日本本土への艦砲射撃を行い、巨砲を活用した攻撃を行っているが、もとより「大艦巨砲主義」の想定した使い方とは判断しづらい。
なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の湾岸戦争で、アイオワ級戦艦「ミズーリ」と「ウィスコンシン」が出撃し無人偵察機による弾着観測射撃や巡航ミサイル攻撃を実施し、主に対地上作戦で一定の戦果を挙げている。
賛否
太平洋戦争において日本海軍が米海軍と異なり、大艦巨砲主義に拘束され航空優位思想に転換できなかったという批判があるが、米海軍の建造数を見れば判る通りこのような考えは完全に誤りである。開戦直前まで艦歴20年を超える戦艦10隻しか擁さない日本海軍は大和型2隻の建造を行ったにすぎないが、これに対して1940年時点で米海軍はノースカロライナ級戦艦2隻・サウスダコタ級戦艦4隻・アイオワ級戦艦4隻、計10隻の建造を開始しており、この動向および各艦の性能は日本側も把握していた[51]。
また、大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、あるいは使用されあるいは使用されようとしあるいは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は日本海軍も連合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はイデオロギーであるとする意見もある[52]。
戦後、日本海軍の砲術出身の大艦巨砲主義者は次のように語っている。
- 福留繁中将は「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている[53]。
- 黛治夫大佐は、大艦巨砲が航空主兵に敗れた戦後になってもなお、戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきだったと生涯主張し続けた[54]。
戦後、大艦巨砲主義に反対していた日本海軍の航空主兵論者たちは次のように語っている。
- 源田実大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている[55][56]。
- 奥宮正武中佐は、戦艦無用論も含む航空主兵論は戦前極端とも見られたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明したとして、とくに航空関係者が嘆いていたのは、大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたと語っている[57]。
アニメ監督の宮崎駿は、日本人は、大型より小型の兵器を好む傾向があり、白村江や、秀吉水軍が李朝水軍に敗れた歴史上の事実は忘れられ、世界最大最強の大和と武蔵を保有しながら脆弱な空母と航空機に頼って戦争を始めたと指摘する[58]。
脚注
注釈
- ^ 「1947年のイギリス軍のインドからの、そして1949年のヨーロッパ艦隊の中国からの撤退に終わる450年間...ヴァスコ・ダ・ガマの時代は今や終わった。」[6]
- ^ 日本海軍もフランスの「青年学派」に同調し明治18年(1885年)2月に主船局長(後の艦政本部長)が海軍大臣あてに意見書を提出し、高価な戦艦ではなく安価な水雷艇の建造を求めた[8]。
- ^ 「スプルーアンスの指揮下の戦艦と巡洋艦の主力は艦隊決戦部隊となり、空母部隊はその後方で作戦することになっていた。」[16]
- ^ 「信長が伊勢で建造させた日本最大かつ華麗な船...は大砲3門を載せており私はこの大砲とその装置を見た またこの船は無数の精巧な長銃を備えている」天正6年(1578年)京都駐在のポルトガル・イエズス教会宣教師オルガンティノの報告書[3]
- ^ イギリス人の説明によると「(ジャンク船)の無力さを表現するのは難しい。ニュージーランド・マオリ人の戦闘用カヌーの二、三艘に中国海軍全艦艇は及ぶまい。」[19]。
- ^ しかし清国は西太后の還暦祝いのため以後の軍艦の購入を停止し頤和園を造営した。定遠級戦艦の建造費は銀100万両であったが、頤和園造営費は2千万両だった。
- ^ 巡洋艦の「吉野」などの速射砲に負うところが大きかった。日本兵の戦意の高さは歌にも唄われ明治28年(1895年)「勇敢なる水兵」の軍歌が発表された。
- ^ 「全技術陣を動員したドレッドノート」[20]
- ^ ドレッドノートの設計は日本海海戦の前に完了しているため同海戦との直接の関係は無い。「日露戦争が生んだドレッドノート」[21]
- ^ 「単一巨砲主義」を設計で最初に考案したのは日本の軍艦「薩摩」であったが、実際は「巨砲主義」に収まり、また完成はドレッドノートの後塵を拝した。
- ^ 大和型の25年も前に世界初の18インチ砲搭載艦となった「フューリアス」なども建造された。
- ^ 日本海軍も英国の建艦速度と技術に追随できなかったが、同盟国として超弩級艦金剛の建造をイギリスに依頼し併せて技術導入を計った。
- ^ 当時世界的超大国であったイギリス本国の開戦前(1913年)の輸出入量は年間1億5500万トン(平均1300万トン/月)であるが、大戦初期のドイツ潜水艦による商船の損失は月間10万トン前後であった。ドイツ海軍は月間60万トン以上の商船を撃沈し続ければ英国が屈服する可能性が有ると判断した。
- ^ 浮上中の潜水艦は極めて弱体であり潜行中は低速で護衛艦の攻撃に弱く、ドイツ潜水艦の損害は増加していった。商船60万トン撃沈の目標を達成したのは4月と6月だけであった。
- ^ 「最悪の場合には、艦隊が滅亡しようとも...乗組員にとっても名誉がかかった問題である...艦隊が屈辱的な講和の取り引き対象になる前に、投入されることが必要なのである。この責任の重い決断は正しかったし、今も正しい。」ドイツ最高海戦指導部参謀長の手記[24]
- ^ ドイツ陸軍は頑強に戦い連合国軍がドイツ領に侵攻することは無かった。また英国海軍には何の戦果も挙げてない戦艦も多かった。塹壕で戦う前線の兵や一般国民は海洋戦略を理解できない者も多く大戦に敗北したのは“裏切り者”のためとする「背後の一突き」の陰謀論が戦後蔓延しナチス党も『我が闘争』(アドルフ・ヒトラー著)などで喧伝した。
- ^ ビスマルク級、リシュリュー級、ヴィットリオ・ヴェネト級。イギリスは軍縮条約の存続を想定し35.6cm砲のキング・ジョージ5世級戦艦を建造した。
- ^ 「ロンドン条約締結以来日本海軍部内では、ワシントン条約の満期時廃棄は既定の事実と考えられており、条約を存続させる意向を示唆するような史料は、まったく見当たらない。」[25]
- ^ 「昭和5年(1930年)ころまで...46cm三連装砲塔(の基本設計)に主カを注いでいた...“18インチ”」の呼称は厳禁されていた。海軍艦政本部において大口径砲の設計を担当した斎尾慶勝海軍技術中将の戦後の手記。「昭和5年(1930年)頃から次期主力艦について研究準備がひそかに進められ、昭和9年(1934年)後期ころには前例の無い大口径砲搭載の特徴ある主力艦について、ほぼ成案を得ていたものと推測される。」[26]
- ^ 「アウトレンジの思想」[27]
- ^ 1940年7月19日ドイツ国会にてヒトラーは英国に和平を勧告。7月22日英国外相ハリファクス卿は拒否を宣言。
- ^ 元英国王であるウィンザー公は親独で反チャーチルの姿勢を示していた。そこで、ドイツは英国との和平を希望しているがチャーチルらが妨害している、と公夫妻に説明し併せて王位復帰を持ちかけた[29]。
- ^ 1940年8月14日、ヒトラーは、空軍の攻撃はチャーチルの失脚と英国民の戦意喪失・反戦機運を期待するものとして、対英国上陸作戦は明確に否定した[30]。
- ^ 1940年10月31日、ポウゼン大管区指導者A・グライサーやナチス党総務局長M・ボルマンが総統官邸を訪れ、ドイツの勝利によりフランスなどの領域を獲得したが同時に膨大な人口を抱え込み、深刻な食糧難に直面しつつある状況を伝えた。 そして、事態はヒトラーのいう「『レーベンスラウム』(生存圏)は東方に求める」に反すると訴え、早期の対ソ連侵攻を求めた[31]。
- ^ ドイツは前大戦の敗北をより大規模な形で繰り返すことになる。
- ^ ヘスは個人として絶望的なドイツの先行きを憂い僅かな希望を追ったものか、あるいはドイツ政府高官らの何らかの政治的働きかけがあったのか、現在でも不明である。
- ^ ドイツが対ソ戦を開始したのは1940年の対英戦の行き詰まりを打開するものとする説も有力である[32]。
- ^ 図上演習によると南方作戦実施後に基地航空隊は機材の3分の2が失われ、残り3分の1も多くが損傷状態であった「昭和16年10月24日付けの山本五十六連合艦隊司令長官から嶋田海軍大臣宛の手紙」。この状態で米艦隊との決戦は極めて危険であるとした。
- ^ 軍令部は猛反対したが昭和16年10月19日「この作戦が認められなければ連合艦隊司令長官の職を辞す」という山本の強硬な主張により、ついに承認された。
- ^ 軍令部の反対に対し「山本長官はこの案が通らなければ、連合艦隊司令長官を辞任すると言っている」渡辺安次参謀。
- ^ 連合艦隊司令長官山本五十六大将は開戦前の昭和16年(1941年)9月に零戦と陸攻の各1000機の整備を海軍大臣に要求し、これにより零戦と陸攻の増産が進められた。ただし九七式艦上攻撃機の昭和16年度(1941年9月から1942年3月まで)の生産数は0機となった[37]。九七艦攻は1942年4月より少数の生産が再開される。
- ^ 「中攻部隊が沈めることができなかったABDA艦隊は艦艇同士の砲戦で決着」[38]
- ^ 最初の航空雷撃は1942年5月7日の重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻に対するもので一式陸上攻撃機12機により「戦艦1隻、重巡1隻撃沈、戦艦1隻大破」という大戦果が報告されたが、陸攻隊は未帰還4機、大破3機、損傷3機で、無傷は2機だけであった。1942年8月8日には零戦15機と一式陸上攻撃機23機でガダルカナル島付近の米艦隊を攻撃し「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」の戦果報告、陸攻隊は未帰還18機、損傷5機と、全滅寸前の状態であった。陸攻隊の損害の大部分は敵艦の対空砲火によるもので有った[39]。
- ^ 通常の航空攻撃で沈んだ米駆逐艦は7隻(陸上攻撃機により1隻、空母機により6隻)だが、日本艦艇の攻撃や特攻機により39隻が撃沈された。「第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧」。
- ^ 昭和17年(1942年)後半の搭乗員の間では「雷撃は生きて帰れない、決死の作戦だ」との認識が広まっていた[40]。「この状況は“プリンス・オブ・ウェールズ”当時とはまた格段の差があった...敵の対空火力が陸攻の攻撃力を上まわって、陸攻の昼間雷撃法がすでに通用しなくなったのは昭和17年(1942年)11月上旬頃だった」[41]
- ^ 同航空戦で日本側の戦果報告は戦艦2隻と巡洋艦2隻撃沈、戦艦2隻と巡洋艦2隻の撃破。
- ^ 航空攻撃で米戦艦を撃沈したのは開戦初日に米基地の真珠湾にて油断し無防備でいたときだけで、米艦隊に対する戦果の大部分は日本軍艦艇の攻撃によるものである。
- ^ 航続距離の優越による「アウトレンジ」は戦前からの想定であり日本機には米軍機に比べ長い航続力が求められていた。
- ^ 戦前の演習では陸上攻撃機や艦上攻撃機(雷撃機)による航空魚雷の命中率が70%以上に達し、敵艦隊を容易に撃滅できると多くの航空主兵論者が主張していたが、実戦では米軍の強力な高角砲や機関砲により多くの攻撃機が撃墜撃破され有効な雷撃がほとんどできなかった。
- ^ 当時の米戦闘機は1000馬力級で、日本軍戦闘機に対し大きな優位は無く、空中での戦闘力は限定的なもので有った。
- ^ 陸攻隊の未曾有の損害、「その原因は、実に敵の対空兵器の改善増大にあったことを、作戦指導部当事者の誰が一体正確に把握し得たであろう...敵艦隊の対空装備はもはや20~30機の雷撃隊では、銃砲火の分散はおろか、 全く肉薄を許さぬ鉄火の陣と変ったのである。 」[43]。
- ^ 「統合陸海軍基本戦争計画(レインボー5 WPL-46)」[44]
- ^ 「太平洋艦隊の戦艦にとって情況は恵まれていた。日本の一部の弩級戦艦が東南アジアに割かれている一方、米軍は戦艦全体が集合できるのである。...40センチ砲ではキンメルは三対二の優位に立っていた」[45]
- ^ 「キンメルは奇襲攻撃を行える有利な立場に立てた」。実現していれば「素晴らしい殴り合い」になるとキンメル提督は戦後語った[46]。
- ^ 「敵は高速戦艦11隻を擁し...ニミッツの指揮下にあるのは6隻」「太平洋艦隊は、あらゆる点において著しく敵(日本)に劣っており...」[47]
- ^ 1943年1月14日のカサブランカ会談でキングは中部太平洋を突破し日本海軍の拠点トラックの制圧を主張した。しかしニミッツ、ハルゼー提督やスプルーアンス参謀長らは作戦上の無理を指摘し反対した。1943年2月にキングはニミッツ提督をサンフランシスコに呼び、ギルバート諸島攻略を主張したが、ニミッツは「ギルバート諸島に上陸してみても・・・大損害を受けて撃退されるにすぎない」と答えた[48]。1943年3月12日にワシントンにて開催された太平洋方面軍事会議でも同様だった。
- ^ ニミッツとスプルーアンスは、日本艦隊がトラックを出撃し、艦隊決戦を挑んでくることを期待し、実現することを願った。「日本艦隊の主力がガルヴァニック作戦に妨害を加えようとした場合、敵艦隊の撃滅が最優先する...ガルバニック作戦の全期聞を通じ、艦隊決戦にそなえていなければいけない」『将官に対する一般的指示』スプルーアンス提督[49]
- ^ 「航空母艦だけでも八隻を撃沈した...この報告を受けた上級司令部、大本営は、この戦果報告を何の疑念を持つことなく情勢判断の資料とし、あるいは公表して終戦まで信じていた。」しかし戦後の米軍資料によると米軍艦艇の被害は1隻も無かった。「これは...実施部隊の誤認によるものか、米側資料の虚偽の発表によるものか、今なお不明であり、今後の研究にまちたい。」“ギルバート諸島沖航空戦の戦果報告と米側の被害発表”[50]
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関連項目
大艦巨砲主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:51 UTC 版)
「蒸気船時代の海戦戦術」も参照 古くは欧米において戦争といえば、陸戦のことであった。政府内に戦争大臣(戦争長官、陸戦大臣)が置かれたが、海軍の仕事は戦争とは別で、政治的に補助的・副次的にすぎないとして序列区別がついており、海軍大臣は格下の閣僚に過ぎなかった。海軍力や海洋支配も強国の存立を左右する死活問題とされたのは、19世紀後半、アルフレッド・セイヤー・マハン、J・S・コルベット、ハルフォード・マッキンダーらによって海洋戦略を陸戦と同格に研究しなければならないという主張が起こり、列強がそれを受容してからである。 その後、大砲の射程が1,000mを越えるようになると、艦隊運動で優位な陣形を組織し、集中火砲を浴びせることで、敵艦を撃沈する戦法が主流となった。19世紀に入ると、蒸気船が登場し、さらにスクリューが発明されて推進力が大きく向上した。大砲も砲弾が炸薬弾になり命中精度や射程が大きく向上、それにあわせて軍艦も防御力向上のため装甲艦が登場し、船体の材質も鉄船、鋼船へと進化を続けた。船の舷側にあった大砲は、旋回可能な砲塔に装備され、艦の中心線に並べられるようになった。19世紀後半には、戦艦、巡洋艦など近代的な役割分担がなされ、主力艦による砲撃戦が海軍の戦略の中心となった。大艦巨砲主義の始まりである。 1905年の日本海海戦では、日本海軍の連合艦隊がロシア帝国のバルチック艦隊を圧倒。各国海軍の大艦巨砲主義はさらに進んだ。第一次世界大戦でのユトランド沖海戦では、英独両艦隊による超ド級戦艦同士の史上最大そして最後の艦隊戦闘が行われた。この海戦ではイギリス側の消耗が大きかったが、ドイツ海軍は北海内に封鎖され戦略的には失敗。また第一次世界大戦では航空機と潜水艦(Uボート)が登場し、特にドイツの潜水艦による通商破壊戦は、イギリスを十分に苦しめ大艦巨砲主義の終焉も見えてくる。 それでも第一次世界大戦後、ワシントン軍縮会議を挟んだ一時期、各国の戦艦建造競争は緩和した。しかし各国の海軍は艦隊による制海権の維持を疑わず、条約が無効化した後も建造競争は行われ戦艦の大型化は進んだ。
※この「大艦巨砲主義」の解説は、「海戦」の解説の一部です。
「大艦巨砲主義」を含む「海戦」の記事については、「海戦」の概要を参照ください。
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