就役後
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「ジェラルド・R・フォード (空母)」の記事における「就役後」の解説
2017年7月22日にバージニア州ノーフォーク基地で就役した。この就役式典にはドナルド・トランプ米大統領、ジェームズ・マティス国防長官などの臨席下で行われた。トランプ大統領は「この艦はアメリカの力と威信の象徴だ。同盟諸国は安眠でき、敵は恐怖に震え上がるだろう。アメリカは必ず勝たなければならない」と演説した。 7月28日、第23航空試験評価飛行隊(英語版)のジェイミー・ストラック中佐が操縦するF/A-18E戦闘攻撃機が本艦初のアレスティング・ワイヤーによる着艦、及び電磁カタパルトによる発艦を成功させた。 本艦は基本的な慣熟訓練及び本艦の機能能力検証作業を行い、対潜戦術・航海・砲術の訓練を経て本格的な空母機能を発揮するための発着艦訓練などの広範な訓練を行い2020年頃に本格配備・展開される予定である。2020年1月16日から31日の16日間、米国東海岸バージニア州ノーフォーク基地沖の大西洋で、実際の航空機を使用した航空機適合性試験(ACT)をアメリカ海軍第23試験評価飛行隊(VX-23)のT-45、F/A-18E/F、EA-18G、VX-20のE-2D、C-2Aが電磁式カタパルト(EMALS)や着艦拘束装置(AAG)の運用テストを実施。T-45では燃料補給員が燃料補給ラインの訓練。格納庫内でも、航空機の取り扱いに関する試験や訓練も実施。より本格的な「空母」としての能力が確認され2月5日に試験完了が公表された。 2021年6月18日に耐衝撃性能試験「フル・シップ・ショック・トライアル」 を実施。 艦の至近距離で爆薬約18トンを爆発させた。
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就役後
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「ヴィクラマーディティヤ (空母)」の記事における「就役後」の解説
2017年7月10~17日にかけて実施された日米印合同軍事演習「マラバール2017」に参加。海上自衛隊の護衛艦「いずも」「さざなみ」や、アメリカ海軍の原子力空母「ニミッツ」と各種訓練を実施。 運用予定年数は不明だが、インド海軍はセヴマシュと40年の保守整備契約を締結している。インド海軍はヴィクラマーディティヤと建造中のヴィクラント、計画中のヴィシャルで3個空母打撃群を編成することを構想している。
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就役後
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12月10日の竣工と共に、沖波は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将〈前職第二水雷戦隊司令官。12月15日発令、12月27日着任〉、司令官代理〈12月25日退任〉小川莚喜大佐・海軍兵学校46期)に編入される。瀬戸内海に回航され、第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊〈山城、伊勢、日向〉、訓練部隊〈龍田、岸波、沖波、朝霜〉)や修理復帰艦艇(不知火、春雨)等と訓練を受けた。12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(二水戦、第27駆逐隊)が合同する。駆逐艦4隻(時雨、春雨、沖波、朝霜)は扶桑型戦艦山城を護衛して呉を出発する。31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した。 1944年(昭和19年)1月4日、沖波と朝霜は内海西部に戻る。以降、第十一水雷戦隊は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する。 1月下旬、サイパン島より横須賀へ向かっていた大鷹型航空母艦雲鷹(1月19日、アメリカ潜水艦の雷撃で損傷)と護衛艦艇は悪天候のため燃料残量が乏しくなり、またアメリカの潜水艦に狙われて窮地に陥った。1月29日、沖波と岸波は桂島泊地を出撃、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹隊救援に向かった。2月5日、雲鷹隊に合流した。7日、燃料補給を終えた各艦(高雄、潮、曙、初霜)は雲鷹隊に再合流した。同日夜、重巡洋艦高雄以下の雲鷹護衛部隊は横須賀に到着して、任務を終えた。
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就役後
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1686年)」の記事における「就役後」の解説
1684年8月19日、影響力のある商人や船長が提出した請願でカスパー・タム(ドイツ語版)が艦長に推薦された。翌日、劣らず影響力に富む利益集団が提督府を訪れ、ヨハン・シュルテを艦長として提案し、結局はその案が優先されることになる。しかし市民議会(英語版)が彼を同職に就けることを拒んだ結果、やはりタムが2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の艦長に任命されている。初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」のホルステ艦長と同様、タム艦長も護送船団への命令に重ねて背き、収支決算簿に申告していない貨物を指揮下の護衛艦に積み込んだ。タムは批判に直面したが、彼は例えば輸送した砂糖をバラストと称し、その携行の理由として積荷の重さによる水上の安定性向上を通じた、艦長として当然の権利である帆走・戦闘性能の改善を挙げている。提督府は特に丁寧な調査を実施せず、すでに築かれていた海賊との戦いにおけるタムの功績を否定しようとする者はいなかったため、彼は辛うじて懲戒処分を免れた。 2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は1686年から1718年にかけて24回の護送に従事した。イベリア半島へ7回、イングランドへ3回、北極海へ6回並びにアルハンゲリスクへ8回である。 1719年、全面的なオーバーホールが必要になると、ハンブルクの会計課は32年の就役の末に必要な修理を承認しなかった。艦はまだ十分に凌波性(英語版)を保っていたが、これらの修理は同時に喫水の増加に直結するものであった。同時期のエルベ川が次第に浅くなってきていると判明し、特に川の浅瀬であるアルトナ砂州が喫水の深い船にとって危険になっていたため、これは甘受できるものではなく、同年3月31日にこの古い艦をもはや維持しないことが決定された。 この決断が下された後、2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は健康委員会の提案でなお暫定的に検疫船として使用される。しかし提督府は基本的に、この護衛艦を売却する方針であった。ハンブルクに隣接し、当時はデンマーク王国に属していたアルトナが関心を表明したが、落札することはできなかった。アルトナ市民が同艦をハンブルクのすぐ近く、エルベ川の中央で自沈させ、ハンブルクへの自由な通商路を封鎖するか、少なくとも阻害する懸念があったからである。 他の候補者は、900ターラーまで支払う用意があった。しかし提督府は少なくとも1,000ターラーの利益を挙げたかったため、さしあたって取引は成立しなかった。 2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」がそれ以降、文献に登場したかは不明である。1722年には後継の3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」が竣工し、公衆に披露されているため、その時点で古い艦はもはやハンブルクの所有下にはなかったものと考えられている。 1669年から1747年にかけて、護衛任務が行われなくなるまでハンブルク市のために活動し、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の名を冠した護衛艦は全部で4隻存在する。
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就役後
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「アトミラリテート・フォン・ハンブルク」の記事における「就役後」の解説
1691年11月、「アトミラリテート・フォン・ハンブルク」はマーリンゼン艦長の下、初めて西方へ向けて出航した。後にゲオルク・シュレーダー、最終的にマルティン・シュレーダーが艦を指揮している。 「アトミラリテート・フォン・ハンブルク」は1691年から1728年にかけて合計32回の船団護送を実施し、「レオポルドゥス・プリムス」に次いで多くの護衛任務をこなした艦となった。最も頻繁に向かったのはイングランド(21回)、次いでイベリア半島(9回)である。 同艦は1738年に廃艦となり、1748年に売却された。
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就役後
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1722年)」の記事における「就役後」の解説
マルティン・タム艦長の指揮下、3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」が現役で船団護衛に従事したのは2年間のみであった。その間に、同艦はイベリア半島へ向けて2回の航海に出ている。 この短い使用期間には、様々な理由があった。 船匠メンケは喫水にほとんど余裕を持たせなかったと見られ、艦は就役中に何度もエルベ川の底に接触している。構造上の実状と砲門数の多さに関連する重量により、艦の喫水は10フィートを大幅に超過し、座礁せずにエルベ川を通過するには平均を上回る満潮を待つ必要があった。こうして、同艦には不利な状況下で失われる危険が付きまとったのである。3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の艦砲を減らして送り出すのは一つの選択肢であったが、それは護衛艦の本来任務と矛盾していた。 過大な喫水に起因する、極端に制限された艦の任務遂行能力はメンケの船匠としての能力を巡る激しい論争に繋がり、結局は後に発注された後継艦、4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の建造が彼に許可されることはなかった。 さらに、イギリスその他の各国が私掠船やその依頼者に貢納金を支払い、商船の無害通航に関して合意を形成したという事情が加わる。ハンブルクの船舶がイギリスの護送船団に加わっても必ずしも護衛を受けられず、各個に襲撃された一方、合意に守られた船の一部は見逃された。ハンブルクはこのような協定を提示することができなかったので、以後は多くの交易品がハンブルクの護送船団の代わりに、携行していた免状(「トルコ人通行証」など)のおかげで広範に私掠船の攻撃を免れていたイギリスその他の船舶で運ばれるようになる。こうして商品がハンブルクの船で運ばれることはほぼなくなり、護衛するべき船団もなくなったので、護衛の需要も必然的に消滅した。 かくして3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は1724年からハンブルク港に係留され、新たな護衛命令を待つことになる。 しかし、そのような命令が発せられることは当分なかった上、塩分に乏しいエルベ川の水が遅かれ早かれ艦体を損なうことが見込まれたため、ハンブルク提督府は同艦をできるだけ高額で売却する決定を下す。スペインが関心を示し、最終的に回航が決まった。しかしネーデルラント沿岸で激しい嵐に遭い、大いに損傷し、修理のため改めてハンブルクへ入港する。 ここで100,000クーラントマルク(ドイツ語版)で売却することになるが、この価格では買い手が見つからなかった。 さらに提督府と市議会の間で議論が発生し、売却は代艦が利用できるようになるまで延期されることになった。 こうして3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は、ヨハニス埠頭で浮き砲台として使われた。 就役から15年後の1737年、ようやく議論してきた両陣営は新しい護衛艦の調達を決定し、ハンブルクのある共同事業体に対して3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の売却が可能となる。それは高額な修理を繰り返した末、目標額を遥かに下回る価格でのことであった。 売却後、同艦は武装商船へと改造され、1757年までは活動が証明できる。 1669年から1747年にかけて、護衛任務が行われなくなるまでハンブルク市のために活動し、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の名を冠した護衛艦は全部で4隻存在する。
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の記事における「就役後」の解説
「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は1669年から1683年にかけて合計11回の護衛任務に就いており、イベリア半島へ9回、イングランドと北極海へそれぞれ1回航海した。 艦長には1669年、それまでにハンブルクで最大のトンネンボーヤーで護衛に従事して名を成し、新しい職務を購入できたマーティン・ホルステが任命されている。 しかしホルステは、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」とともに護衛のため課された命令の一部に違反したり、それらを無視したりした後、不興を買う。例えば彼は船団の船の内、何隻かを護衛せず、その代わりに指定された、もしくは予定外の場所で指定された期間よりも長く停泊し、船団の出納係に過大な請求書を届けたのである。ホルステには艦長への命令を非常に厳しく守ることが求められていた他、何度も警告されてもその奔放な行動を止めなかったため、委員会は彼を規律に従わせるべく最終的に手段を手を打つことになった。その結果、ホルステは「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」において責任ある地位を失ったが、影響力のある親戚を通じ、護衛艦において実際の指揮権を持たないとはいえ、艦長職に留まっている。 1683年、姉妹艦の「レオポルドゥス・プリムス」は大規模な修理に入る。この時点で、本来の艦長であるホルステは提督府と対立に陥っていたため、海賊との数々の戦いを通じてハンブルクに非常に貢献していた提督、ベーレント・ヤーコプゼン・カープファンガーがすぐに「レオポルドゥス・プリムス」から「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」に転任し、同艦の指揮を引き継いだ。続いてカープファンガーは1683年の秋、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」とともに初の航海に出発し、同年10月には少しの遅れをもってカディスに到着する。ここで彼はさらなる航海の準備を行うべく、沖合に投錨した。帰りはハンブルクへ戻る前に、イングランドのワイト島に寄港する予定であった。 この時点で、艦の乗組員は船員と士官合わせて150名と兵員80名であった。さらに法務官(英語版)とその部下並びに船医数名、説教者1名と召使い数名が居た。
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就役後
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「レゾリューション級原子力潜水艦」の記事における「就役後」の解説
1番艦のレゾリューションは1964年2月に起工し、1966年9月に進水、1967年に就役した。就役後はポラリス・ミサイルの運用試験などで長期間の公試が行われた。ポラリスの発射実験は1968年2月15日の11:15にケープ・ケネディ沖のアメリカ空軍東部試験場で行われた。本級は第10潜水艦隊に所属し、全艦がスコットランドのファスレーン海軍基地を母港とした。 ポラリスミサイルの陳腐化などの理由から、トライデントミサイルを搭載できるヴァンガード級原子力潜水艦に後を譲り、1995年までに全艦が退役した。退役の際に原子炉は撤去され、全艦はロシス造船所で保管された。
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1740年)」の記事における「就役後」の解説
1740年に進水した「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は、その名を冠する4隻目にして最後の護衛艦であった。また、同艦はハンブルクで護衛任務を与えられた最後の艦である。 1729年から1745年にかけて、ハンブルク提督府は全ての護送船団を停止した。1739年、スペインとイギリスの間で戦争が勃発すると、船団護送はハンブルクで再び議論の対象となり、最終的に新造艦の発注をもって再開されている。1740年10月25日、船匠ミヒャエル・イーヴェン(1686年-1773年)が建造した4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は遂にハンブルクのグラースブローク(ドイツ語版)造船所で進水した。彼は社会的地歩を築き、先代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」を建造したものの、その時の発注者が課した義務に違反して不興を買い、大いに批判されていた船匠メンケの後任となった。 1741年には大砲が搭載されたが、この新しい艦はさし当り本来任務から外れ、護送任務に就く代わりにハンブルク港に係留され、警備艦としてエルベ川から町の守りを固めることになった。 塩分に乏しいエルベ川の水は艦体下部へ早くに悪影響を及ぼしたため、4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は1743年、エルベ河口へと移ることを余儀なくされる。現在のクックスハーフェンにあるハンブルクのリッツェビュッテル官庁(ドイツ語版)とその領地は、当時はハンブルク人の長官(ほとんどの場合、市参事会議員(ドイツ語版))が監督するハンブルクの機関にして海賊に対抗する基地でもあり、艦の停泊が可能な港湾を提供していたのである。リッツェビュッテル(ドイツ語版)に臨む北海の、より塩分濃度が濃い海水は艦体を保てると考えられたため、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」はひとまずこのハンブルクの飛び地に留められた。 1746年9月2日、4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」はスペイン、あるいは地中海へ向けて最初にして最後の船団護衛を命じられる。 当時、同艦の艦長はヨアヒム・ヴィルヘルム・ブロッケス(ドイツ語版)であった。 しかしこの艦はかなり鈍く、迅速で小回りの効く海賊船の拿捕や撃退にはほとんど向いていないことが判明したため、任務は軍事的示威に制限された。 1747年8月28日、4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」は故郷の近海に戻り、エルベ川を遡上した。ハンブルクに到着すると改めて係留され、同市による船団護衛に終止符を打つ。今後も船団を護衛する代わりに、同艦は港の警備艦や観光名所としてのみ維持されることになる。そして貴賓の来訪を受けたほか、艦上で何度かミサが実施された。 警備艦として30年間就役した後の1774年、武器庫の監督官が鑑定を行った。彼は艦体が、これ以上はミサも実施できないほど危険で悪い状態にあることを突き止めた。当時、後で会計課の専門家が判定したように木製構造の分解が、スポンジのような強度しか残さないほど進展していたと見られる。 1774年には、付近の船を危険に晒すことなく桟橋に繋ぐことができなくなるほど状態が悪化しており、1777年11月19日には艦体を売却する許可が下りた。 このように悪い状態にあったにも拘わらず、公の競売で同艦はなお3,450マルクの収益を挙げている。 4代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の売却をもって、ハンブルク提督府はこれ以上、護衛艦を発注しないことにした。護送するべき船団はほとんどなくなっていたため、費用対効果が釣り合わなくなっていたためである。 さらにハンブルクがフランスと通商条約を締結したことで、フランスの私掠船による襲撃は行われなくなった。その代わり、フランスの軍艦が自国の沿岸において私掠船からの保護を担当することになる。またアルジェリア人とも和約が結ばれ、交易が容認されるようになった。 以後は完全武装の護衛艦に代わり、「国家のヨット」として主に外交上の役割を果たす複数の小型艦が調達されたのである。
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