司令官代理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 05:40 UTC 版)
「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「司令官代理」の解説
1948年、ナスティオンは TKR の副司令官の地位に昇進した。TKR で最高位にあったのは大衆に人気のあるスディルマン将軍であったが、ナスティオンは副司令官就任によって、ただ一人大佐の身分でありながら、軍内ナンバー2の地位に立つことなり、スディルマンを補佐するこの新たな役割での仕事に早速取りかかった。4月、部隊構成を再編し、6月の司令官会議では、オランダに対して TKR はゲリラ戦で戦うべきというナスティオンの提案が承認された。 1948年9月にマディウンで起こった事件の経験から、後に陸軍トップの地位に立つことになるナスティオンは、軍司令官はどうあるべきかについて学んだ。この年は前首相アミル・シャリフディンがインドネシア共産党(以下、PKI とする)の議長ムソと提携を深め、東部ジャワのマディウンで武装蜂起を起こした。事態が暴力的にしか解決されないことは誰の目にも明らかだった。 ジョグジャカルタの TKR 司令部にこの知らせが届くと、高級将校の会議が開かれた。スディルマンは何とかインドネシア人同士の暴力を避けようと願い、反乱派との交渉を行いたいと考えた。スディルマンはスハルト中佐に命じて、共産主義者との取引を交渉させた。その交渉を終えてきたスハルトは、ナスティオンとスディルマンに、すべてが平和的に解決できそうですと報告した。ナスティオンはその報告を信用せず、スディルマンが病床に伏したため、司令官の代役を務めることになった。ナスティオンは反乱の鎮圧を決意した。共産主義者を排除し、反乱を終結させるべく、手兵のシリワンギ師団の部隊を派遣した。 9月30日、マディウンはシリワンギ師団の部隊によって奪還された。数千の PKI 幹部が殺害され、36000人が投獄された。処刑された者の中には数人の反乱指導者が含まれ、ムソは10月31日に(一説では脱獄しようとしていた時に)射殺された。D.N. アイディットをはじめとする他の PKI 指導者らは中国に逃れた。 1948年12月19日、オランダ軍はインドネシア共和国領内に侵攻し(カラス作戦)、共和国臨時首都ジョグジャカルタを攻撃、これを占拠した。ナスティオンは他の司令官とともに部隊を郊外に撤退させ、ゲリラ戦に臨んだ。 大統領スカルノと副大統領モハマッド・ハッタがオランダ軍に捕らえられたため、西スマトラのブキティンギにインドネシア共和国非常事態内閣 (PDRI) が設立された。この暫定政府のもとで、ナスティオンは陸軍司令官およびジャワ管区司令官の地位を与えられた。 すべての見通しが悪かった1948年だったが、1949年はインドネシアにとって風向きが良くなった。スルタン・ハメンクブウォノ9世の3月1日大攻勢宣言はインドネシアの全兵士に徹底抗戦を呼びかけるとともに、国際連合に働きかけて、オランダがインドネシアの独立を認めるよう国際世論の圧力をかけた。オランダは6月に戦闘を中止し、12月には停戦となった。ついにオランダはインドネシアの独立を認めた。ブキティンギの非常事態内閣は権限をスカルノ・ハッタに戻し、ナスティオンはスディルマンの副司令官の地位に戻った。
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