司令官解任と晩年
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「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事における「司令官解任と晩年」の解説
マールバラは続いてフランス領のアルトワ丘陵とフランドルの諸要塞を攻略にかかったが、翌1710年、2つの事件から彼の立場は劇的に悪化した。この年、アン女王とサラの対立が決定的となって女王がサラを宮廷から追放し、ホイッグ党が選挙に敗れて戦争を推進してきた大蔵卿ゴドルフィンが政権から滑り落ち、かわってロバート・ハーレー、ヘンリー・シンジョンらが率いるトーリー党が政権についた。新政権はこれまで取り調べを免れていたマールバラによる軍事費着服疑惑の調査を開始し、1711年12月21日、オーストリアからイギリスに支払われた軍資金数万ポンドがマールバラによって横領されていたことが報告された。これによりマールバラは29日に最高司令官の座を失い、まもなく和平交渉が開始された。 イギリスに帰国した後もトーリー党からの弾劾が続き、翌1712年12月1日にネーデルラントのオステンドに亡命、サラとも合流してアントウェルペン、マーストリヒト、フランクフルトなど転々としながらもヨーロッパにおける活躍から行く先々で民衆に歓迎された。1713年4月11日、ユトレヒト条約が結ばれ、戦争はフランスの体面を保たせつつもヨーロッパ大陸によるその覇権を大きく傷つける結果に終わったが、最大の功労者であるマールバラは既に権力を失っていた。 1714年にアン女王が死去し、遠縁のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として即位、ハーレーらトーリー党が失脚してホイッグ党が復権したことによって、マールバラは8月1日にイギリスに帰国してジョージ1世の好意で大将軍と兵站部総監の地位に復帰したが、もはや名目上の役職でしかなかった。マールバラは1704年にブレンハイムの戦勝の恩賞としてアン女王から与えられた領地にこもり、1705年に着工したブレナム宮殿の建設に専念した。宮殿はマールバラの生前には完成せず、完成は1725年までかかることになる。 1722年6月16日、72歳でウィンザーのウィンザー・ロッジ(後のカンバーランド・ロッジ、en)で死去。遺骸はウェストミンスター寺院に葬られた。後に未亡人となったサラによってブレナム宮殿のチャペルに夫妻の墓地が設けられ、遺骸はそこに改葬されて現在に至っている。
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