試験・評価
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「XP-67 (航空機)」の記事における「試験・評価」の解説
試作第1号機は1943年12月1日に完成したが、同月8日に初飛行のため地上運転していたところ排気系統のトラブルによりエンジンから出火してしまう。機体を修繕し年の明けた1944年1月6日に初飛行に成功するものの、またもやエンジンの不具合により飛行は6分間で終了となった。その後エンジンナセル内の気流の流れ方を改善してオーバーヒートを防止するよう工夫したが、4回目の飛行試験では意図せぬエンジン過回転によりベアリングの焼損を起こしてしまう。破損したエンジンを交換する間に風洞実験をやり直し、水平尾翼位置を約30cmほど高くするなどの改良が行われ、3月には試験飛行を再開する。その結果、コックピットのレイアウトや操舵感、ピッチ方向の安定性は良好であると評価されたが、一方でエンジンが非力で加速や上昇性能が悪く離陸滑走距離が長い、ダッチロールを起こしやすく方向安定性が悪い等のいくつかの欠点が指摘された。またエンジンXI-1430は未だ揺籃期にあり信頼性が不足していたこともトラブルに拍車をかけた。5月には陸軍の評価試験までこぎつけ、数回の試験飛行が行われる間に欠点のいくつかは克服されたが、エンジンにまつわる問題だけは解決できなかった。そして同年9月6日の試験ではエンジン火災が発生し、機体を大きく破損させることになってしまった。これを機に陸軍はXP-67の評価試験に見切りをつけ、既に高性能な戦闘機P-47やP-51の実用化が進んでいたことから、さらなる開発は不要としてマクドネルとの契約を解消することとなった。この時点で試作2号機は製作に取り掛かったばかりであったが、結局完成することなく開発計画は幕引きとなってしまった。
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試験・評価
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「グロスター F.5/34」の記事における「試験・評価」の解説
本機の開発はグラディエーターの増産計画により遅延し、武装なしの初号機(K5604)の初飛行は1937年12月にずれ込んだ。一方、7.7mm機銃(ブローニングM1919重機関銃)8挺を装備した2号機(K8089)は1938年3月には飛行試験を開始している。しかし本機の飛行試験が始まった頃には、既にハリケーンの部隊配備およびスピットファイアの生産が開始されており、新機種の必要性が薄れていたためグロスターはそれ以上の開発を中止してしまった。試作機は1938年にヘンドンで開催された航空祭で一般公開されたものの、その後すぐに実験飛行部隊に追いやられ、1941年5月には地上教材用とされた。 制式採用には至らなかったが、性能自体は同時代の機体と比べても遜色ないものであった。テストパイロットによると、本機は競合相手に比べて短距離離陸能力、初期上昇力に優れ、高速域でもエルロンが重くなり過ぎず効きが良く、操縦性が素直で機動力も高かったそうである。また、キャノピーは全周囲型であり、スピットファイアやハリケーンのようなファストバック型よりも視界が良好であった。 なお、本機の外見は零戦とよく似ているとし、性能値に漸近した点が話題になることもある。
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「グロスター E.28/39」の記事における「試験・評価」の解説
完成した機体は再びハークルコートに移され、1941年の4月から地上テスト用のジェットエンジンW.1を搭載してタキシングを行う試験が開始された。これは特に問題なく終了し、5月15日には新しいエンジンを搭載してグロスターのテストパイロットであるゲリー・セイヤー(Gerry Sayer)の手によりリンカンシャー州のクランウェル(Cranwell)基地から初めて空へ飛び上がった。この初飛行は17分間続き、成功を収めた。その後も試験は続けられ、より洗練されたジェットエンジンに換装して何度も飛行を行った。機体の小改修も行われ、試験計画の後半には高速時の安定性を増すために水平尾翼に小さなフィンが取り付けられた。 仕様書では片翼当たり2丁の7.7mmブローニング機関銃を装備することになっていたが、これは実際に搭載されることはなかった。 2機目の原型機はRover W2Bエンジンを搭載して1943年3月から試験に参加した。試験を行ううち、エンジンオイルと潤滑系統に問題があることが発見された。不幸にもこの二代目の機体は7月の試験飛行の際、エルロンが可動しなくなり墜落してしまう。原因はエルロンの制御系に誤ったグリースを使ったことだった。片方のエルロンが固着し、機体を制御不能に陥らせたのである。なお、幸運なことにパイロットは脱出して無事であった。 1機目の原型機は1944年まで試験を続けられ、同時期に現れたさらに進歩したターボジェット機にその役目を譲った。E.28/39はスピード記録を出すことはできなかったものの、実験機としては十分有効なデータを残し、優れた上昇力と高い上昇限度を見せつけ、ジェット機の可能性を示した。また、イギリス初のジェット戦闘機であるミーティア開発への道を切り開いた点でイギリス航空界のマイルストーンであると言える。 現在、第1号機はロンドンのサイエンス・ミュージアムに殿堂入りして展示されている。また、フルスケールのレプリカが2機製作され、1機はホイットル縁の地であるハンプシャー州のファーンボロー(Farnborough)近郊に、もう1機はエンジンが製造されたレスターシャー州のルターワース(Lutterworth)に安置されている。フルスケールの模型もグロスターシャー州のジェット・エイジ博物館(Jet Age Museum)の有志の手によって製作されている。
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試験・評価
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「XP-60 (航空機)」の記事における「試験・評価」の解説
XP-60の原型機は初飛行には成功したものの、試験は順調に進まなかった。層流翼の表面仕上げの問題やエンジンスペックが公称よりも低かったことから予定された性能が発揮できず、さらに降着装置の問題まで発生していた。この結果、P-60の開発は1941年12月20日にひとまず中止され、1942年1月2日に契約内容が変更されることになった。この契約は、それまで開発していた試作機と同等仕様であるXP-60Aを1機、XP-60Aのターボチャージャーをライト製SU-504-1に換装したXP-60Bを1機、エンジンを大型のクライスラー製XIV-2220に換装したXP-60Cを1機生産するというものであった。さらにカーチスを財政危機に陥らせないため、陸軍はP-40を1,400機、P-47を2,400機、P-62を100機ずつ生産させることにした。 XP-60Cに導入予定であったクライスラーのエンジンは完成する見通しが結局立たず、もし導入できたとしても機首前方の重量増加をバランスするために尾部に数百キログラムの鉛を仕込まなければならないことがわかり、プラット・アンド・ホイットニー製R-2800(出力約2000hp)にエンジンを変更することが決定された。また同時期、最初に製作されたXP-60の試作機のエンジンをマーリン61型に換装し、垂直尾翼を拡大した機体が試験的に製作されたが、これはXP-60Dとして登録された。 XP-60Aは1942年11月1日に初飛行した。1942年の夏頃には陸軍のP-60に対する期待は薄れていたが、R-2800にエンジンを換装することで性能が向上するのではないかと目され、結果的に二重反転プロペラとR-2800を搭載した機体をP-60A-1-CUとし、500機の製造契約を結ぶこととなった。また二重反転プロペラが失敗したときの保険として、カーチスでは単層の4翅プロペラを装備したXP-60Eの開発を行うことにした。XP-60Eの機体はXP-60BのエンジンをR-2800-10に換装することで用意された。 1943年1月27日、R-2800-53と二重反転プロペラを装備したXP-60Cが初飛行し、飛行特性は概ね良好であった。一方、XP-60Eは遅れて1943年5月26日に初飛行したが、これはXP-60Cに比べて重量が軽いためエンジンを30cm近く前方に移動する改修を行う必要が途中で判明したからである。 1943年4月、アメリカ陸軍航空軍は開発中の数種の戦闘機の比較評価を行い、最も性能が望めない機種の開発を中止することにした。この評価試験のためにカーチスはXP-60Eを供出するように指示されたが、XP-60Eはちょうど使用不能の状態であったので代わりに急遽調整されたXP-60Cがライト・パターソン飛行場(en:Wright-Patterson Air Force Base)で行われる試験に送られた。こうして評価試験は行われたものの、XP-60Cは様々な問題を抱えており、性能は貧弱であった。この結果、当初500機であった製造契約が2機にまで減らされ、実質的に陸軍航空軍から不採用の烙印を押されることになった。 1944年1月、XP-60Eはイグリン飛行場(en:Eglin Air Force Base)で公式の試験飛行が行われたが、同時期の戦闘機と比べて特に優れている点はないというテストパイロットの評価しか得ることができなかった。このような結果を受けてカーチスはP-60シリーズに対する作業の一切の中止を申し入れたが、陸軍は契約した2機のうち1機は完成させるように通達したため、もともとYP-60A-1-CUとして量産しようとしていたものをYP-60Eとして再設計することとなった。このYP-60EはエンジンをR-2800-18(出力約2,100hp)に換装し、ファストバック型のキャノピーをバブルキャノピーに改めた点がXP-60Eと異なっていた。YP-60Eは1944年7月13日に初飛行し、その後ライト・パターソン飛行場に送られたがそのまま放置された。YP-60Eは終戦後早々に民間に払い下げられてエアレース機に改造されたが、早々にテスト飛行中墜落して失われた。
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