高速輸送艦時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/14 05:18 UTC 版)
「ディカーソン (駆逐艦)」の記事における「高速輸送艦時代」の解説
1943年11月1日、改装を終えたディカーソンはノーフォークを出港し、太平洋に向かう。エスピリトゥサント島を拠点に輸送と護衛に従事したあと、1944年1月30日にブカ島の北西方の海域に位置するグリーン諸島に対する作戦(グリーン諸島の戦い)に参加する。ディカーソンは他の艦艇とともにベララベラ島の泊地を出撃し、翌1月31日朝にアメリカ軍とニュージーランド軍からの4個中隊からなる部隊を諸島の中核であるニッサン島に上陸させたものの、残存日本軍部隊との交戦や日本機の機銃掃射によっていったん退却を余儀なくされた。前哨戦のあと、日本軍の様子を知ることが出来た連合軍側は2月15日から20日にかけて再度グリーン諸島に大挙として押し寄せ、ディカーソンも再び上陸作戦に加わって陸上部隊を上陸させた。3月20日にはエミラウ島の占領作戦に参加したが、こちらは労せず確保することができた(エミラウ島の無血占領)。1944年4月にはニューギニアの戦いにはせ参じるためミルン湾に到着し、以降の2か月間はダグラス・マッカーサー陸軍大将率いる南西太平洋軍とともにあった。ディカーソンはセレオ島とアイタペ(英語版)の攻略に参加。その後は真珠湾に下がって修理を受けたあとロイ=ナムル島に進出し、高速輸送艦デント(英語版) (USS Dent, APD-9) とともに水中爆破班をサイパン島とグアムに輸送した。サイパン、グアム両戦役で補給と管制、火力支援の各任務を7月末まで行ったあと、ディカーソンは西海岸へ向かってオーバーホールに入った。 オーバーホールを終えたディカーソンは1944年11月にアイタペに到着し、ニューギニア方面で護衛任務を行ったあと水中爆破班を乗せ、ルソン島の戦いに加わる。12月27日に拠点を出撃して1945年1月9日にリンガエン湾にいたり、水中爆破班の行動を支援した。1月末にウルシー環礁に回航されたあと、2月19日からの硫黄島の戦いにも後方支援任務担当として参加した。硫黄島を確保したアメリカ軍の次の目標は沖縄であったが、本作戦の前に慶良間諸島を確保して前進基地とすることを画策した。ディカーソンはレイテ島に58名の捕虜を輸送したあと、第77歩兵師団(英語版)の一部を乗せた戦車揚陸艦と中型揚陸艦の集団を引き連れて慶良間に向かい、3月24日に慶伊瀬島を占領。慶伊瀬島は「ロング・トム」M59 155mmカノン砲が配備されて重砲の島となった。 4月2日夕刻、ディカーソンは洋上で哨戒中に神風の攻撃を受けた。1機の双発の日本機が機銃掃射を行うような態勢で突入してきたが、いったんディカーソンの上空を通過したあと攻撃輸送艦ヘンリコ(英語版) (USS Henrico, APA-45) に爆弾を命中させた。その双発機は爆弾を投下したあともそのまま去らず、再びディカーソンめがけて突入。機体は煙突をかすめて艦橋基部に命中してマストを押し倒した。これとあまり時を隔たないときに別の日本機がディカーソンに対して爆弾を投下し、爆弾は船首楼に命中して一番砲を吹き飛ばした。神風と爆弾の命中により艦長ラルフ・H・ラウンズベリ少佐以下艦の幹部はことごとく戦死し、艦は中央部から火災を発して艦橋を取り巻き、前方と後方は火災によって遮断された。ディカーソンは10ノットの速力を維持していたが間もなく前部弾薬庫が誘爆を起こし、生き残ったディカーソンの乗組員は艦を放棄しなければならないことを悟った。ディカーソンはラウンズベリ艦長を含む54名が戦死し、残る乗組員は僚艦バンチ(英語版) (USS Bunch, APD-79) とハーバート(英語版) (USS Herbert, APD-22) に救助された。ディカーソンは鎮火には成功したものの被害甚大につき、除籍ののちに慶良間に曳航され、4月4日に海没処分された。 ディカーソンは第二次世界大戦の功績で、6個の従軍星章(英語版)を受章した。
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