ドラグーン作戦とは? わかりやすく解説

ドラグーン作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/08 04:48 UTC 版)

ドラグーン作戦

ドラグーン作戦作戦図
戦争第二次世界大戦
年月日1944年8月15日9月11日
場所:南フランス
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国
カナダ
フランス
イギリス
オーストラリア空軍
南アフリカ連邦空軍
南ローデシア空軍
ギリシア王国海軍
ドイツ国
フランス国
指導者・指揮官
ジェイコブ・L・ディヴァース英語版
アレクサンダー・パッチ英語版
ヘンリー・ケント・ヒューイット英語版
ジョン・K・キャノン英語版
ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ
エドガー・ド・ラルミナ
ヨハネス・ブラスコヴィッツ
フリードリヒ・ヴィーゼ英語版
戦力
175,000-200,000
上陸箇所に
85,000-100,000
損害
不明 不明
第二次世界大戦

ドラグーン作戦(ドラグーンさくせん、英語: Operation Dragoon)は、第二次世界大戦中の1944年8月に行われた、南フランスプロヴァンス地方への連合国軍の上陸作戦である。

上陸作戦の立案過程

フランス北部へのノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)を支援する目的で、南フランスへの上陸作戦も1943年中に検討が進み、11月のテヘラン会談で承認されていた。

しかし、ノルマンディー上陸作戦の準備だけでなく、連合軍はイタリア半島イタリア戦線参照)でも上陸作戦を行っており、実施するだけの船舶・部隊の確保がおぼつかない状況であった。

1944年1月、アイゼンハワーは6月中の実施を表明したが、ソ連の意図に疑念を持つチャーチルバルカン半島の英米による奪還が先決であることを主張、南フランスでの作戦は撤回すべきとした。これに対し、この作戦はスターリンと既に交わしてある約束であるとするフランクリン・ルーズベルトは、チャーチルの主張の受け入れを拒否、8月15日に作戦を開始することを決定した。

作戦名は当初アンヴィル (Anvil) 作戦であったが、途中からドラグーン作戦に改名された。

英米軍の編成と出撃

1944年6月にノルマンディー上陸戦線が行なわれ、連合軍はフランス上陸を果たした。上陸戦器材も確保できるようになり、準備が進められた。

投入される部隊は主にイタリア戦線から引き抜かれることになった[注 1]

北アフリカ自由フランス軍1個師団も加え、アメリカ第7軍を抽出。8月9日以降、既に制圧していたイタリアのサレルノターラントブリンディジシチリアコルシカ及び北アフリカのオランから艦隊が出航、14日-15日夜カンヌトゥーロン間の沖合いに達した。米英加混成の空挺部隊(第1空挺任務部隊)も準備を完了した。

連合軍の進撃

8月15日に空挺降下および海岸上陸が行なわれた。アメリカ第7軍の第6軍団はニースとトゥーロンの間の海岸に軽微な損害で上陸した。引き続きフランスB軍主力も上陸している。プロヴァンス方面に配置されていたドイツ第19軍は二線級部隊がほとんどであり、また北フランスのファレーズの戦いで戦力が消耗していたこともあって、早期に撤退方針が決定した。そのため、一方的な追撃戦となった。

28日にはトゥーロンとマルセイユを占領。またローヌ川を遡上し、同日グルノーブルに到達。ドイツ第19軍は抵抗らしい抵抗はせず、アルザス地方へと退却していった。

その後、9月11日に北部で上陸したジョージ・パットンアメリカ第3軍ディジョンで出会い、フランス国内における南北の戦線が繋がったことでこの作戦の目的は達成された。

脚注

注釈

  1. ^ これによりイタリアでの戦いは翌年までゴシック線で停滞してしまうことになる。

参考文献

外部リンク

西部戦線 (1944-45)

ドラグーン作戦

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ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の記事における「ドラグーン作戦」の解説

B軍集団司令官としてノルマンディー実施されオーヴァーロード作戦から数週間後となる8月15日のドラグーン作戦の準備支援した。ド・ラトル麾下の7個師団(約256千人)は、アメリカ軍3個師団特殊部隊および空挺部隊とともに、アレグザンダー・パッチ中将率いアメリカ第7軍参加したアメリカ第6軍団および第7軍団とともに、ド・ラトルとその幕僚、主にアントワーヌ・ベトゥアール、エドガー・ド・ラルミナ1944年8月31日にジョセフ・ド・ゴイスラール・ド・モンサベールに交代)が1944年8月15日プロヴァンス分隊してフランス内地軍(英語版)の一部として8月27日トゥーロンの戦い英語版)と8月29日マルセイユ戦い英語版)に参加したトゥーロンマルセイユという2大港湾解放したことにより、連合国軍人的物的補給能力大きく向上し西部戦線における決定的な優位確保された。 ド・ラトルの部隊はヴァレ・デュ・ローヌを遡って9月2日にはサン=テティエンヌ、翌9月3日リヨン解放し、さらに9月8日にはマコンシャロン・シュル・ソーヌボーヌオータン解放したフランス内地軍の一部編入することにより、ド・ラトルは麾下部隊実効兵力137千人から約40万人にまで増やすことができた。1944年9月からは、ヴィシー政権軍自由フランス軍フランス内地軍からフランス解放軍編成され、この結果1944年9月25日B軍集団フランス第1軍再編された。

※この「ドラグーン作戦」の解説は、「ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の解説の一部です。
「ドラグーン作戦」を含む「ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の記事については、「ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の概要を参照ください。

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