トゥーロンの戦い
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「エドワード・ホーク」の記事における「トゥーロンの戦い」の解説
詳細は「トゥーロンの海戦」を参照 オーストリア継承戦争中、ホークが初めて戦場に出たのはトゥーロンの海戦でだった。ホークはこの戦いでいくらかの名誉を得たが、戦闘そのものは極端に混乱した。イギリス軍は負けなかったが、交戦状態になかった多くの艦隊が好機を逃して、総合的にフランスとスペインの連合軍に完勝することができず、多くの軍法会議が開かれる結果となった。ホークの艦は、この戦いで唯一、スペイン艦ポデルをどうにか拿捕したが、後にこの艦はフランス軍により破壊された。 この好機を逃したのは、イギリス海軍が、戦列を組めていないにもかかわらず交戦せざるを得なかったため、指揮官のトマス・マシューズ自らが戦列を離脱したのが一因だった。これには、マシューズと仲たがいしていた次席指揮官、リチャード・レストックがわざと戦列に入るのを遅らせたからと言われているが、レストックは逆にマシューズの艦隊運用のまずさを告発し、このためマシューズは、最終的に辞職に追い込まれた。
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トゥーロンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 14:01 UTC 版)
1793年9月18日から12月18日のトゥーロン攻囲戦では、スペイン軍はイギリス軍と連合して港の防衛を試みた。ジャック・フランソワ・デュゴミエ率いるフランス軍に対し、防衛軍の指揮官はスペインの提督フアン・デ・ランガラ、フェデリコ・グラビーナ、イギリスの提督サミュエル・フッド、将軍チャールズ・オハラだった。フランス軍が当時若年の砲兵将校だったナポレオン・ボナパルトの策を採用して港の船へ大砲を撃ち込み始めたので、防衛軍はトゥーロンからの撤退を余儀なくされた。フランス軍は14隻の戦列艦を失い15隻以上を拿捕され、犠牲者は2000人を数えたが、防衛軍の損害はその倍に及んだ。戦後、フランス軍は捕虜としていた2000人のエミグレを虐殺した。
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