海軍入隊とトゥーロンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 05:49 UTC 版)
「ジョシュア・ロウリー」の記事における「海軍入隊とトゥーロンの戦い」の解説
詳細は「トゥーロンの戦い」を参照 ロウリーは海軍に入隊後、父の旗艦であるスターリングキャッスル(英語版)で任務に就き、トゥーロンの戦いに参戦した。この戦闘は雌雄決せず、しかもトマス・マシューズ提督と部下の数人の艦長が海軍を追われたことで、かなりの物議をかもした。その後ロウリーの父ウィリアムが、1748年まで地中海艦隊の最高指揮官を務め、ロウリーは父と共に地中海での任務に就き、1747年の7月2日に大尉に昇進した。1752年には、大尉として44門のフリゲート艦ペンザンス(英語版)に乗艦し、1753年の12月4日にはポストキャプテン(肩書だけでなく、職権のある海軍大佐)となって、6等艦24門艦のライ(英語版)の指揮を執った。1755年の3月には1等艦で40門フリゲート艦のアンバスケード(英語版)に配属となった。このアンバスケードは、1746年のオーストリア継承戦争中に、フランスに拿捕されていた艦だった。アンバスケードがビスケー湾に停泊している間、ロウリーはエドワード・ホークの指揮下に配属された。時期は短かったものの、300以上ものフランスの商船を拿捕した。1756年までに、ホークはミノルカで不運の提督ジョン・ビングと交代し、ロウリーは50門艦ハンプシャー(英語版)に異動した。
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