海軍入隊とアメリカ独立戦争
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「ジョン・クック (イギリス海軍)」の記事における「海軍入隊とアメリカ独立戦争」の解説
ジョン・クックは1762年3月5日に、海軍本部の書記であるフランシス・クックと妻マーガレットの次男として洗礼を受けた。クックは11歳で海軍に入隊して、カッター船「グレイハウンド(英語版)」で、海尉ジョン・ベイズリーのもとで任務に就いた。その後、グリニッジのブラーケンの海軍兵学校に入学し、アレグザンダー・フッドからロイヤル・ヨッツ(英語版)の名簿に登録された、フッドはのちに長きにわたりクックの保護者となった。1776年、13歳のクックは士官候補生となって、「イーグル」に乗艦した。その後3年間、北アメリカ駐留地の旗艦である「イーグル」で任務に就き、東に広がる海岸地帯での海戦を目のあたりにした。ここで行われた海戦の中で、注目すべきは1778年のロードアイランドの戦いだった。この時「イーグル」は、岸にいたアメリカ部隊と交戦した。この戦闘におけるクックの功績は、リチャード・ハウ提督をして「おやおや若い者よ、お前はまだ任官試験を受ける年齢にもならないうちから海尉を目指しているな」と発言せしめた。1779年1月21日、クックは海尉に昇進し、「シュパーブ」に乗って、エドワード・ヒューズ(英語版)の指揮のもとインドに向かったが、病気のため休職せざるをえなくなった。 クックはイギリスに戻った後、勉強のために1年間フランスへ行き、1782年に海軍に戻って、「デューク(英語版)」のアラン・ガードナー艦長のもとで任務に就いて、デュークが激戦を繰り広げたセインツの海戦を目撃した。クックは、パリ条約によってアメリカ独立戦争が終結した後も、ガードナーと共に行動し、その後50門艦「エウロパ(英語版)」に、ガードナーから一等海尉として配属された。ガードナーはジャマイカで准将となり、自らの旗をエウロパにたなびかせて、クックを指揮下に置いたが、クックは重傷を負い、免役されて帰国した。1790年のヌートゥカの危機(英語版)までにはクックは全快し、保護者であるアレキサンダー・フッドから、旗艦の90門艦「ロンドン(英語版)」の三等海尉の任務を命じられた。しかしこの危機では戦闘に至らず、ロンドンは退役し、クックは陸上生活となった。
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