海軍元帥就任
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1695年10月にラッセルから主力艦隊の指揮を承継、翌1696年に海軍元帥(Admiral of the Fleet)へ任命された。1697年のレイスウェイク条約による講和成立までの間、イギリス海峡と地中海での任務を継続した。1700年には大北方戦争の冒頭、オランダ海軍との連合艦隊を率いてコペンハーゲンへ出撃した。これは、デンマークにスウェーデン王カール12世軍を上陸させる、ハンス・ヴァヒトマイスター(英語版)提督のスウェーデン海軍との協同作戦であった。 1702年にスペイン継承戦争が勃発すると、ルークはオーモンド公ジェームズ・バトラーと共にカディスへの遠征を指揮したが失敗に終わった。しかし本国への撤退の途中、スペイン護送船団と遭遇してビーゴ湾の海戦により撃滅できたため、議会に対して申し開きができた。ルークは貴族院の特別委員会の非難を受けたものの、枢密院議員の地位を得た。 1704年にも地中海での作戦行動を行い、5月末にはフランス艦隊と遭遇するが、停船して作戦会議を開く間に逃げられてしまった。同年7月には、ジブラルタル攻略戦で海上部隊を指揮し、占領後の7月24日から8月4日までジブラルタル総督を務めた。8月13日にはマラガの海戦でフランス・スペイン連合艦隊と交戦し、戦術的には引き分けだったものの、ジブラルタルの確保に貢献する戦略的勝利を収めた。
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