海軍作戦部長へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:20 UTC 版)
「ウィリアム・フェクテラー」の記事における「海軍作戦部長へ」の解説
1945年3月からは戦線を離れ、ワシントンに戻って再び人事局副局長を務める。また、1946年から1947年にかけては太平洋艦隊戦艦・巡洋艦部隊の司令官も務め、1947年2月1日付で中将に昇進した。中将に昇進後のフェクテラーは海軍作戦部入りして人事担当の次長に就任し、1950年1月までそのポストにあった。1950年2月1日に大将となって大西洋艦隊司令長官に就任して、1951年8月まで在職した。 1951年7月22日、第12代海軍作戦部長であるフォレスト・シャーマン大将(アナポリス1918年組)はナポリ滞在中に心臓発作に襲われて急死。これを受け、フェクテラーが第13代の海軍作戦部長に任命された。海軍最高位のポストに就いたフェクテラーは、シャーマン時代から続く極東、ヨーロッパ水域及び朝鮮戦争にかかわる海軍の活動に関する全責任を引き継いだ。1951年から1952年にかけて、フェクテラーはヨーロッパに二度、アジアに一度足を踏み入れ、その一方では経済状況に応じてフォレスタル級航空母艦の建造計画を修正し、また海軍関係者のための福利厚生の充実にも尽力した。世界最初の原子力潜水艦である「ノーチラス」 (USS Nautilus, SSN-57) の建造が計画され起工したのも、フェクテラーの海軍作戦部長時代のことである。 1953年、時のアイゼンハワー大統領によってポストの交換が行われ、南ヨーロッパ方面のNATO部隊司令官を務めていた、アナポリスの同期のカーニーに代わってフェクテラーが南ヨーロッパ方面NATO部隊司令官となり、カーニーは第14代の海軍作戦部長となった。フェクテラーはナポリに赴いて南ヨーロッパ方面NATO部隊司令官の職を1956年7月まで務め、このポストを最後に退役した。退役後のフェクテラーは国防総省における人事報酬検討の特別調査委員会委員や、ゼネラル・エレクトリック社に設置された原子力事業本部の顧問を務めた。フェクテラーは1967年7月4日の独立記念日にメリーランド州ベセスダのベセスダ海軍病院(英語版)で71歳の生涯を閉じ、父や弟も眠るアーリントン国立墓地に葬られた。
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