海軍休日の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:35 UTC 版)
「ドイッチュラント級装甲艦」の記事における「海軍休日の時代」の解説
1番艦のドイッチュラントは1931年(昭和6年)5月19日、キールのドイチェヴェルケ造船所でパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の手によって進水し、1933年(昭和8年)4月1日に就役した。同日、ヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠(英語版、ドイツ語版)にて2番艦アドミラル・シェーアも進水した。1934年(昭和9年)11月12日に就役した本級の1番艦がヴィルヘルムスハーフェンに配属されたのに対して、2番艦のシェーアはキール軍港を定係港とした。なお、3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーはヴィルヘルムスハーフェン造船所で建造され、1934年(昭和9年)6月30日に進水、1936年(昭和11年)1月6日に就役した。 1936年(昭和11年)7月23日にドイッチュラントとアドミラル・シェーアは不介入的哨戒活動のため、スペイン東岸に送られた。現地においてドイッチュラントは多数の戦争難民の救助活動にあたり、避難していく商船に引き渡した。また、ドイツからフランコ政権への援助物資を満載した船舶を護衛したり、共和派の通信を傍受して情報収集を行った。この期間中に共和派・革命派双方の空軍・海軍からの誤攻撃を避けるために、主砲塔に中立国の艦艇であることを示す「赤・白・黒」のストライプを塗装して判別化を図った。その努力にもかかわらず、1937年(昭和12年)5月にドイッチュラントはマリョルカ島パルマのドックにて整備を受けていた際に共和派空軍の空襲を受け、イギリスやイタリアの海軍艦艇と共に対空砲火を送る羽目になった。その後、ドイッチュラントはイビサ島に移動したが今度は5月29日に再び空襲を受けて2発の爆弾が命中した。1発は艦橋の付近に着弾し、もう1発は右舷3番副砲近くに着弾して甲板上に猛火を吹き上げ、乗員の内23名が死亡、73名が負傷した。 これに激怒したヒトラーは僚艦アドミラル・シェーアに共和派海軍の根拠地であったアルメリアを砲撃するよう命じた。奇しくもユトランド沖海戦と同日の5月31日、アルメリア沖合いに姿を現したドイツ装甲艦は海岸砲台、海軍施設、港湾の艦艇に対し猛然と砲撃を敢行し拠点を焼き払った。
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