海軍入隊と二つの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 05:21 UTC 版)
「チャールズ・イングリス」の記事における「海軍入隊と二つの戦争」の解説
イングリスは1731年ごろ、2代準男爵サー・ジョン・イングリスと妻アンの四男として生まれた。母のアンは、オーミストン卿アダム・コックバーンの娘だった。1745年、イングリスは海軍に入隊した。最初は40門艦ルドロウ・キャッスル(英語版)で、ジョージ・ブリッジズ・ロドニー艦長のもと任務に就いた。翌年、ロドニーと共に60門艦イーグル(英語版)に移った。ロドニーはこの艦で数度の有益な航海を行った。その航海で、1747年の6月にはフランスの護送船団から4隻を拿捕し、1747年10月25日、第二次フィニステレ岬の海戦で、少将エドワード・ホークとデシェルビエ・ド・レタンデュエルの交戦の際に、ホークの指揮のもと戦った。このフランス船拿捕や、第二次フィニステレ岬の海戦で、イングリスは実戦を目の当たりにした。イーグルはフランスの70門艦ネプチューンとの激戦でかなりの損失を被った。1748年の8月、アーヘンの和約の締結と共に退役となり、乗るべき艦を失ったイングリスは、1750年まで無役だった。その後50門砲のタヴィストック(英語版)に乗り、艦長フランシス・ホルボーンのもとで任務に就いた。イングリスの伝記作者P. K. クリミンは、ホルボーンもイングリス同様にスコットランドのローランド地方の出身であり、この時は、イングリスのおじで、海軍卿のジョン・コクバーンをはじめとする支援者のつながりによって職を紹介されたのだろうとしている。コクバーンは1727年から1732年までと、1742年から1744年と2度海軍卿を務め、イングリス一家の友人である2代男爵ジョン・クラークも大きな政治的影響力を持っていた。 1755年2月6日、イングリスは海尉の試験に合格した。海軍に入隊して10年が過ぎていた。エイブラハム・ノース艦長のもとで74門艦のモナーク(英語版)に乗り、1756年の4月までには74門艦のマグナニーム(英語版)に異動して、ウィテューロング・テイラー艦長のもとで任務に就いた。次にイングリスはテイラーと共にマルバラ、そして1757年の6月3日には84門艦ロイヤル・ウィリアムに乗艦した 。その後指揮官となって、1757年6月17日、14門艦のスループであるエスコート(英語版)(エスコルト)で、初めて単独で指揮を執った。当初イングリスは、1757年9月の、ホークのロシュフォール遠征の支援をしていたが、結局この遠征は失敗に終わった。次に1759年6月、新しい臼砲艦カルカス(英語版)に乗り、翌月のル・アーヴル攻撃を支援した。この時の最高指揮官は、イングリスのかつての上司であるロドニーだった 。この遠征は成功して、港に集結していた多くの平底船を破壊し、このため、フランスのイギリス本土侵攻計画は挫折した 。カルカスは1759年5月に、地中海へ航行した2隻目の艦として記録されたが、翌年にはイギリスに戻り、シアネスで1760年に退役した。
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