フィニステレ岬の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:14 UTC 版)
「エドワード・ホーク」の記事における「フィニステレ岬の戦い」の解説
詳細は「第二次フィニステレ岬の海戦」を参照 トゥーロンの戦いで名を挙げたにもかかわらず、その後3年間、ホークにはほとんど好機が与えられなかった。しかし1747年に少将に昇進し、ピーター・ウォーレンの代理として、西方戦隊の指揮官となった。ホークは、乗組員の行動を改善すべくに多大な努力をし、彼らにプライドと愛国の精神を叩きこんだ。西方戦隊は、ドーバー海峡に沿ったフランスの港の監視を目的として設立され、ホークの前任指揮官であるジョージ・アンソンは、うまくフランスの対岸を封じ込め、1747年の5月に第一次フィニステレ岬の海戦で、フランスの港を出た護送艦隊を攻撃し、勝利を収めた。 イギリス軍は今まさに、西インド諸島からの護送艦隊がドーバー海峡に入ってくるとの知らせを受け取った。ホークは艦隊を連れて、フランス軍の到着の待機に入った。1747年の10月、ホークは第二次フィニステル岬の戦いで、ビスケー湾でフランス艦隊のうち6隻を拿捕し、その後戦争が終わるまでに、ドーバー海峡をほぼイギリス軍の手中に収めた、これは、アンソンのかつての勝利に加えられた偉業だった。一方でこれはフランス経済にとって大きな痛手であり、これによってイギリスはアーヘンの和約で、納得が行く和平交渉を進められた。 この時期を得た勝利が認められ、ホークはバス勲章を受章した。これは、決して大盤振る舞いによる叙勲ではなかった。
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