カルタヘナの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 05:49 UTC 版)
「ジョシュア・ロウリー」の記事における「カルタヘナの戦い」の解説
詳細は「カルタヘナの海戦 (1758年)」を参照 1757年の10月には、60門の4等艦モンタギュ(英語版)の任務を託され、ヘンリー・オズボーン提督の、14隻からなる地中海艦隊にいったん加わった。オズボーンは当時、スペインのカルタヘナで、ノバスコシアのルイブールに向かうジャン=フランソワ・ド・ラ・クルー=サブラン(英語版)提督率いるフランス艦隊の封鎖を行っていた。フランス海軍は、ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メルヴィユ(英語版)侯爵に、イギリスの封鎖を打破し、ラ・クルーに援軍を出して、数の優位でカルタヘナを脱出させ、北アメリカに向かわせるように指示を出した。オズボーンは艦隊と1隻のフリゲート艦でデュケーヌを阻止した。これに続いて起こった海戦は、後にカルタヘナの戦いとして知られるようになった。1758年2月28日のことだった。 オズボーンの艦隊はフランス艦隊のうち2隻を拿捕し、モンタギュとモナーク(英語版)が、カルタヘナの城塞の下に停泊していたフランスの60門艦オリフラムを岸に追いやった。戦闘そのものはさほどの規模ではなかったが、デュケーヌの軍勢は壊滅し、これが2つの異なる効果をイギリスにもたらした。まず、この戦いの勝利で、トゥーロンの戦いやミノルカの戦いで連敗続きだった海軍に、誇りが戻ってきた。次に、1758年のルイブールの戦いでのフランスの敗戦と降伏で、北アメリカでのフランスの力は大きく後退した。そのため、このカルタヘナの戦いも、七年戦争の帰趨を決定づけるものであったとイギリスでは考えられている。もしラ・クルーが、オズボーンの封鎖をかろうじて突破していたなら、現在の北アメリカの地図はかなり違うものになっていただろう。
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