カルタヘナ宣言
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ヌエバ・グラナダのカルタヘナで、スペインへの徹底抗戦を誓うカルタヘナ宣言を発表。これに共感したヌエバ・グラナダの市民はボリバルをベネズエラ解放遠征軍司令官に任命。サンタフェ・デ・ボゴタを中心とするクンディナマルカ共和国(スペイン語版、英語版)(1810年 - 1815年)の指導者アントニオ・ナリーニョ(スペイン語版、英語版)の支援を得て1813年、ボリバルはベネズエラ進攻を指揮して5月23日にメリダに入り、El Libertador(解放者)と呼ばれた。8月6日にカラカスを奪回し、ベネスエラ第二共和国(英語版)(1813年 - 1814年)の成立を宣言した。 兵力劣勢な共和派が成功したのは、軽快な機動力と優れた戦術によるものであった。だがカラカスに入り込むと、ボリバルの足は縛られた。強力な王党派軍はたいして減っておらず、白人クリオーリョへの反感を利用して地方のメスティーソやインディオなどの民衆から兵を集め、カラカスを締め上げた。そのうえ、スペイン本国においても1814年にスペイン独立戦争が終結してフェルナンド7世が復位したため、植民地の独立軍を鎮圧する体制を整えられるようになった。カラカス市民は共和派支持を鮮明にしており、その頃荒れ狂っていた王党派の虐殺から逃れてきた難民でカラカスの人口は膨れ上がった。そのような情勢で軽々しく市を放棄すると、味方の市民が殺される恐れがあった。1814年に共和派の軍は防衛戦で消耗したあげく、分かれて脱出した。ボリバルが市民を引きつれて東に脱出すると、スペイン軍は再びカラカスを占領した。 さらにその頃ヌエバ・グラナダでは、トゥンハに首都を置き連邦制を主張するヌエバ・グラナダ連合州とボゴタに拠点を置き中央集権体制を目指すクンディナマルカ共和国が対立し、独立勢力同士で内戦状態となっていた。ボリバルはカルタヘナへと戻ると、ヌエバ・グラナダ連合州の軍を率いて1814年にボゴタを攻略し、両勢力を統合した。ヌエバ・グラナダ連合州は首都をボゴタに移し、さらにサンタ・マルタのスペイン軍を包囲するが、根拠地だったカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れたため、1815年にイギリス領ジャマイカへと亡命した。亡命後、スペイン軍は兵力を増強して独立軍の拠点を次々と陥落させ、1815年にはカルタヘナも陥落した。
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