カルタヘナ宣言とは? わかりやすく解説

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カルタヘナ宣言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 06:59 UTC 版)

シモン・ボリバル」の記事における「カルタヘナ宣言」の解説

ヌエバ・グラナダカルタヘナで、スペインへの徹底抗戦を誓うカルタヘナ宣言を発表。これに共感したヌエバ・グラナダ市民ボリバルベネズエラ解放遠征軍司令官任命サンタフェ・デ・ボゴタ中心とするクンディナマルカ共和国スペイン語版英語版)(1810年 - 1815年)の指導者アントニオ・ナリーニョスペイン語版英語版)の支援得て1813年ボリバルベネズエラ進攻指揮して5月23日メリダ入りEl Libertador解放者)と呼ばれた8月6日カラカス奪回しベネスエラ第二共和国英語版)(1813年 - 1814年)の成立宣言した兵力劣勢共和派成功したのは、軽快機動力優れた戦術よるものであった。だがカラカス入り込むと、ボリバルの足は縛られた。強力な王党派軍はたいして減っておらず、白人クリオーリョへの反感利用して地方メスティーソインディオなどの民衆から兵を集めカラカス締め上げた。そのうえ、スペイン本国においても1814年スペイン独立戦争終結してフェルナンド7世復位したため、植民地独立軍鎮圧する体制整えられるようになったカラカス市民共和派支持鮮明にしており、その頃荒れ狂っていた王党派虐殺から逃れてきた難民カラカス人口膨れ上がったそのような情勢軽々しく市を放棄すると、味方市民殺される恐れがあった。1814年共和派の軍は防衛戦消耗したあげく、分かれて脱出したボリバル市民を引きつれて東に脱出すると、スペイン軍は再びカラカス占領した。 さらにその頃ヌエバ・グラナダでは、トゥンハ首都を置き連邦制主張するヌエバ・グラナダ連合州とボゴタ拠点を置き中央集権体制目指すクンディナマルカ共和国対立し独立勢力同士内戦状態となっていた。ボリバルカルタヘナへと戻ると、ヌエバ・グラナダ連合州の軍を率いて1814年ボゴタ攻略し、両勢力統合したヌエバ・グラナダ連合州は首都ボゴタ移し、さらにサンタ・マルタスペイン軍包囲するが、根拠地だったカルタヘナ起きた王党派蜂起敗れたため、1815年イギリス領ジャマイカへと亡命した亡命後スペイン軍兵力増強して独立軍拠点次々と陥落させ、1815年にはカルタヘナ陥落した

※この「カルタヘナ宣言」の解説は、「シモン・ボリバル」の解説の一部です。
「カルタヘナ宣言」を含む「シモン・ボリバル」の記事については、「シモン・ボリバル」の概要を参照ください。

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