ヴィシー政権軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:08 UTC 版)
「ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ」の記事における「ヴィシー政権軍」の解説
1940年6月22日の独仏休戦後はヴィシー政権軍に留まり、1940年7月から1941年9月にかけてクレルモン=フェランの第13師団司令官付副官およびピュイ・ド・ドームの軍司令官を務めた。ド・ラトルは、この時期に軍の結束・信頼・規律の維持に大きな役割を果たした。ド・ラトルは、フィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権がフランスの国益を守るために行動していると信じて、政府の命令を実行した。熱心に若い士官を督励した他、アルザス人と兵士を動員して野戦学校や教導センターを開設して有能な士官・将官の育成にあたった。師団将軍(少将)に昇進するとチュニジア駐留軍最高司令官となり、そこでも教導センターを開設した。1941年9月下旬から1942年2月2日まで4か月同地にあったが、上官であるアルフォンス・ジュアンと論争となって本国に召還され、配置換えされた。フランスに帰国するとモンペリエに本拠を置く第16軍団に着任した。1942年11月8日に連合国軍がトーチ作戦を発動してフランス領北アフリカに上陸したが、その際ヴィシー政権軍が大した抵抗もなく降伏したことから、ドイツは報復措置としてアントン作戦を発動して南フランスを占領、ヴィシー政権軍を解散させた。このとき、ド・ラトルはドイツ軍と交戦すべからずという命令を拒否して抗戦を下命したことから逮捕され、数か月間にわたって投獄された。
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