ヨーロッパ戦域合国軍指揮官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:19 UTC 版)
「ドワイト・D・アイゼンハワー」の記事における「ヨーロッパ戦域合国軍指揮官」の解説
1942年6月にアイゼンハワーはロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官(CINCAF)に着任し、イギリス軍や旧ヴィシー政権軍の将軍たちとの調整を行った。 アイゼンハワーはアメリカ軍による新聞検閲制度を廃止し、兵士たちのトラブルをあえて開示することで綱紀を粛正しようとした。また兵士たちに対して、アメリカの戦争目的が民主主義のためであるという教育を徹底させ、さらに兵士たちにイギリス人に対する配慮を求めることで、両国間の関係を改善させた。アイゼンハワー自身に対する人気も高まり、日に9回もパーティーに出席せねばならないほどであった。 最初の大仕事はモロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦、即ち1942年11月8日に開始された「トーチ作戦」であった。アイゼンハワーがトーチ作戦の最高司令官の座を要求したアンリ・ジロー大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることで収めたことは、彼の高い調整能力を示すものであった。 マーシャルやフランクリン・ルーズベルト大統領は「国威発揚をもたらし、高い調整能力を持つ」として、1944年3月にアイゼンハワーを大将に任命した。中佐になってからわずか4年であり、この時点では空前のスピード昇進であった。 以降ハスキー作戦に始まるイタリア戦線の最高指揮官となり、ジョージ・パットンやバーナード・モントゴメリーといった癖の強い部下たちの調整に当たった。9月8日にはイタリア王国との休戦条約を締結している(イタリアの降伏)。
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