連合軍上陸
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第32軍には、大本営の南西諸島重視の方針もあり、沖縄本島に精鋭第9師団を含む3個師団と1個旅団に多数の火砲、宮古島にも1個師団が配備され、戦力は充実していた。八原が中心となって考案した作戦計画は、連合軍の上陸が予想される複数の地域に各兵団を配置し、連合軍が上陸してきたら、上陸正面の兵団が構築した陣地で防戦し、連合軍を海岸線に釘付けとしている間に、他の地区に配置されている兵団が空襲を避け夜間に連合軍の上陸地点に集結し、充実している火砲で連合軍橋頭堡に激しい砲撃を加え大損害を与えた後に、第32軍が総力を挙げて上陸軍を攻撃し海に追い落とそうという作戦であった。そのため、参謀長の長を中心として地上戦重視のため、陣地構築に力を注いでいたが、大本営は捷号作戦による航空作戦準備(飛行場設営)優先を第32軍に度々要求してきており、第32軍に「航空作戦準備に協力しない場合増援した兵力を他に移さなければならない」や「中央の方針に従わないのなら第32軍参謀を更迭する」などの脅しをかけてくるほどであった。牛島はやむなく大本営の方針を受け入れ、まずは飛行場設営に注力するよう命令した。 1944年10月台湾沖航空戦により、アメリカ軍に大打撃を与えたと誤認していた大本営は、連合軍がフィリピンに侵攻してくるや、戦機到来と考えレイテ島の戦いを決戦にするため増援を送ることとした。台湾から3個師団がレイテに送られたが、大本営はその穴埋めとして1個師団を沖縄から抽出し台湾に送ることとし、その協議を台湾で行うと第32軍に通知してきた。牛島は八原に「軍から1兵団を抜くのであれば、沖縄本島か宮古島どちらかを放棄しなればならない。」「それでもフィリピンが決戦というのであれば、第32軍の主力全部をフィリピンに転用すべき。」などとする第32軍の意見書を持たせ、台湾で開催された会議で、大本営の服部卓四郎作戦課長を前に意見を述べさせたが、結局11月11日に大本営から精鋭一個師団を台湾に移駐するという命令が届いた。八原が反発したが牛島は命令を受け入れ、17日に第9師団を台湾に送ることと決した。 主力を失った第32軍は八原の「宜野湾東西の線以南の島尻郡に軍主力を配置し、北方・中頭部に上陸して南下する敵に対しては、首里北方陣地線に於いて持久し、敵に出血を強要する」という、従来の水際撃滅の決戦方針の作戦から戦略持久作戦への作戦修正案を採用することとした。牛島は八原の作戦修正案の説明を聞くと「第9師団は取り上げられてしまったが、今回の作戦計画は非常に手堅く、かえって今までより必勝の信念が強くなった。」と笑顔で言葉をかけた。 戦略持久作戦に軍の方針が決すると、第32軍の総力と沖縄県民の動員で沖縄の珊瑚礁の固い地盤を利用して多数の洞窟陣地を構築した。主陣地の第一線には、LVT対策として牛島の発案で高射砲が配置された。今までの戦訓を分析し、高射砲の水平射撃が敵戦車に効果が高いと判断したからであった。そして首里高地地下に構築された第32軍司令部も完成し、牛島らは1945年3月に同司令部に移った。同司令部は最深部35m、総延長1㎞であり、1トン爆弾の直撃にも耐えられるような構造となっていた。牛島は地下陣地の電燈を見て「銀座の夜店を思い出す」と冗談を言い、幕僚らを和ませている。 1945年3月24日に連合軍の大型艦が姿を現し、艦載機による猛爆撃に加えて、艦砲射撃もおこなった。牛島は連合軍による沖縄への侵攻だと判断し、甲号戦備移行を命令した。多大な労力をかけて構築された沖縄本島の飛行場にはたった15機の作戦機しかなかったが、航空参謀の神は牛島に全機特別攻撃出撃の命令を願い、牛島は許可した。特攻機は中飛行場沖合の敵艦隊に突入した。1945年4月1日、連合軍が沖縄本島に上陸を開始すると、一部の進撃遅滞目的の部隊以外は、陣地に籠って一切反撃を行わず隠忍自重していたため、連合軍は殆ど抵抗を受けることなく、その日のうちに4個師団50,000名が沖縄本島に上陸し死傷者はわずか159名だった。これは牛島が裁可した既定方針通りであったが、敵が上陸したら敵に使用されないように飛行場を破壊するはずだった特設第一連隊が、上陸前の激しい艦砲射撃で消息不明となり、飛行場の破壊が不十分なままで連合軍に占領され、これが後に尾を引くこととなってしまった。
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