水際撃滅とは? わかりやすく解説

水際撃滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)

サイパンの戦い」の記事における「水際撃滅」の解説

大本営は、マリアナ来襲したアメリカ軍空母9隻、戦艦9隻を基幹とするもので、上陸兵力1、2師団判断し、「この堅固な正面猪突来れるは敵の過失」として、守備隊勇戦敢闘撃退できると確信していた。これまで強気であった東條予想外にサイパンへの侵攻早まったにも関わらず昭和天皇に対してサイパンテニアングアム確保できる」と、絶対自信披瀝するほどであったが、日本の上部隊戦力推計過小判断であったアメリカ軍タラワの戦いLCVP珊瑚礁浅瀬航行できず、多く兵士浅瀬徒歩の上陸を余儀なくされて大損害を被った教訓から、上陸する将兵浅瀬まではLCVP進み、そこでアムトラック水陸両用車)に乗り換えて上陸するといった、上陸戦術の改善行っており、膨大な数のアムトラック準備された。第2海兵師団と第4海兵師団の上部隊は、半数アムトラック半数LCVP乗り込み可能な限り海岸近くまで接近した戦艦テネシー」と「カリフォルニア」を主力とした巡洋艦駆逐艦による艦砲射撃支援の元にチャラン・カノア中心に南北広がるビーチ目指し殺到してきた。 6月11日から続いた上陸まで激し空襲艦砲射撃で、地上暴露していた陣地施設等は殆ど破壊されてしまい、水際陣地火砲半数撃破され、ビーチ正面守っていた各部隊連日の砲爆撃大損害は被っていたが、師団長斎藤進んでいない陣地構築のなかで、兵力一部縦深配置しており、掩蓋かけたり地形巧みに利用した陣地や、丘陵地区に配置されていた砲兵比較損害少なく健在であった。また多数設置していた偽陣地砲撃分散したのも艦砲による被害減少させる要因となったなかでもタポチョ山南東南郷神社付近の山中に展開していた独立山砲兵第3連隊損害軽微で、野戦重砲大隊黒木弘影少佐)の九六式十五糎榴弾砲12門は砲爆撃による損失が1門もなかった。独立山砲第3連隊は、南京攻略戦徐州会戦武漢攻略戦南昌作戦宜昌作戦第一次長沙作戦といった日中戦争の主要会戦戦ってきた精鋭で、関東軍として満州で猛訓練積んできたのち、サイパン送られてきたものであり、砲爆撃打撃から立ち直った陣地から順次砲撃開始し、第1派の上部隊正確な砲撃によって、アムトラック31輌が撃破されるなど大損害を被った。 それでもアメリカ軍は8:45に第1派が上陸成功すると、第4派までに合計700輌ものアムトラックビーチ海兵隊員送り込み続け上陸開始わずか20分で8,000人を上陸させた。上陸した海兵隊員からは「敵の対船砲火は、今のところ効果なるものとは見えず」や「部隊170地区堂々と前進中なり」などと順調な戦況伝え無電入っていたが、ビーチ正面守っていた日本軍守備隊南地区独立歩兵316大隊中地区地区歩兵136連隊第2大隊は、大損害を被りながらも粘り強く抵抗続けており、アメリカ軍制圧できていた地域ビーチからわずか縦深90mにしかすぎずに、狭い橋頭保多数海兵隊員ひしめくこととなってしまった。一方日本軍は、激し艦砲射撃艦載機による攻撃海岸線設置されていた火砲次々と撃破されていたが、山中配置されていた独立山砲兵第3連隊火砲や、海岸を見下ろす丘陵地域に巧みに配置されていた、中・小口径で機動式の火砲迫撃砲部隊多く健在で、砲爆撃打撃から立ち直って砲撃開始し、第4派と第5派の上部隊接近してきたとき日本軍砲火が最も激烈となった日本軍火砲は、事前にあらかじめ珊瑚礁着弾集中するように射角調整していたが、アメリカ軍アムトラック隊が珊瑚礁差し掛かると、日本軍砲撃によって珊瑚礁の線全体水柱と炎の幕が下りたように見え沖合艦艇水兵からは、一連の多数機雷がひとつの信号同時に爆発したかのように見えたという。 第6海兵連隊第1大隊海上だけで100人が死傷するなど、日本軍砲撃によってアメリカ軍大損害を被り多数アムトラック撃破されたことから搭乗していた海兵隊員泳いでの上陸を余儀なくされ、多く兵器装備にぬれて使用不能となった上陸しても、狭い橋頭保日本軍砲弾絶え間なく飛来し多数海兵隊員吹き飛ばしたアメリカ軍巧みに隠され迫撃砲発見する手段がなく、上陸部隊からは平文で「敵迫撃砲爆撃されたし」という悲痛な無電通信入り続けた海岸張り付いた海兵隊員絶え間なく着弾する日本軍砲弾から身を守るため、砲弾でできた弾痕をさらに掘り進めて即席蛸壺壕作って身を潜めたりしていたが、死傷者増大する一方であった。。前線よりは、「形勢は、相当困難なり」という苦戦知らせ無電通信寄せられて、同行していた従軍記者の間に「これは本当危機らしいぞ」という緊張走り予想外苦戦ホーランド・スミスは、日本軍兵力想定より50%以上は多かったことを認識したまた、健在であったサイパン北端海軍海岸砲は、艦砲射撃をしている艦船応射行い戦艦テネシー」の5インチ砲を1門撃破し死傷者35名の損害与えている。 アメリカ軍138,891発8,500トン艦砲射撃行い海岸陣地をより弱体化できたと考えており、日本軍猛烈な反撃は全くの予想外だったアメリカ軍による自らの艦砲射撃についての評価は、かなりの成果挙げてアメリカ軍勝因最有力なものの一つとなったとの前向きな評価をしつつも、上陸当日海岸線日本軍猛烈な反撃を被る事となった為、サイパン戦での艦砲射撃効果は「不十分」であったとも分析し準備砲撃期間が短く目標多かった 空中観測訓練が不十分 グアム戦を見越して弾薬節約していた 日本軍火器偽装陣地変換巧みであった との反省点を挙げている。 ニミッツも「上陸地点向けられ不十分な砲火だけではあまりにも不徹底であり、海岸背後両翼陣地には、丘陵地帯ガッチリ据えつけられた多数火砲機銃無傷残っていた。」と回想している。 第43師団師団長斎藤は、空襲艦砲射撃師団司令部破壊されていたので、6月13日以降南郷神社付近洞窟戦闘指揮所設けてそこから戦闘指揮行っていた。また、独立混成47旅団長の岡は、戦闘指揮所前線により近いヒナシス丘陵付近に前進させ、自ら第一線戦闘指揮していた。斎藤は、水際撃滅の為に戦車第9連隊第5中隊吉村中隊長)と、他の島に転用予定ながらアメリカ軍の上陸遭遇してしまった独立歩兵315大隊(前歩兵第40連隊第3大隊)などの逆襲部隊を、岡の戦闘指揮所のあるヒナシス丘陵周辺集結させた。 11時までには上陸したアメリカ第2海兵師団前線400ヤード(365m)進めたが、日本軍砲撃大損害を被っており、特に第6海兵連隊これまで35%の戦力失っていた。斎藤反撃好機判断し正午ごろに独立歩兵315大隊主軸とする1,000名の歩兵吉村戦車中隊15両に反撃命じた12時にオレアイ付近日本軍の反撃受けた第6海兵連隊は、戦車支援がなかったので日本軍戦車攻撃M3 37mm砲バズーカ対抗したが、日本軍猛攻水際まで一旦押し切られそうになった吉村戦車中隊95式軽戦車は、アメリカ軍アムトラック戦車砲台取り付けたアムタンク(水陸両用戦車)と戦車戦になったがそれを撃破し、さらに第6海兵連隊作戦将校たちが搭乗していたアムトラック撃破して、作戦将校死傷させた。 第6海兵連隊苦境救ったのが、海岸近くまで接近していた巡洋艦駆逐艦艦砲射撃で、艦砲射撃態勢立て直した第6海兵連隊反撃によって、独立歩兵315大隊大損害を被って撃退され吉村戦車中隊も2両を残し撃破された。この後も、アメリカ軍艦砲射撃猛威振るって日本軍守備隊大打撃与えており、ヒナシス丘陵戦闘指揮をしていた独立混成47旅団長の岡も艦砲射撃により戦死しこれまでアメリカ軍大損害を与えてきた砲兵艦砲射撃空爆などによって、15日日中には半数程度沈黙していた。 それでも、残った日本軍防衛線は各所頑強な抵抗行いアメリカ軍占領地域は容易に拡大できなかった。夜までにアメリカ軍確保したのは、海岸線南北1キロ縦深数百メートル細長い地域過ぎず、これはアメリカ軍計画半分にも満たなかった。特にアメリカ軍上陸地域南端アギガン岬とほぼ中央のアフェトナ岬(日本呼称ススペ崎)の日本軍陣地アメリカ軍攻撃何度も撃退し陣地確保していた。なかでもアフェトナ岬は第2海兵師団と第4海兵師団上陸点の中間にあたり、アフェトナ岬を攻略できなかったことにより上陸初日の夜を、両師団分断された状態で迎えることとなってしまった。分断された両師団12人から15人で編成され偵察班を互いに派遣して連絡取り合おうとしたが、両班ともに全員が行不明となり、1人帰ることはなかった。アメリカ軍日本軍掘削していた深さ2m対戦車壕利用し戦闘指揮所野戦病院として活用した日本軍砲弾は夜でも絶え間なく飛来しており、海兵隊員対戦車壕や自ら掘削した蛸壺壕のなかで不安を抱きながら夜を迎えた上陸初日アメリカ軍損害は、第2海兵師団だけで戦死者行方不明者は553名負傷者は1,022名に上った。また第4海兵師団含めれば死傷者は2,000名以上となり上陸したアメリカ軍10%にも達している。これは、のちの硫黄島の戦いにおける上陸初日死傷率8%を上回るものとなった指揮官死傷も相次ぎ、第2海兵師団10人の大隊長のうち、この日だけで5人の大隊長死傷したが、ある大隊では続けて3人の大隊長失っている。しかし、海兵隊指揮官失えば、その代理がすぐに指揮引き継ぐ訓練徹底されており、大きな混乱起きなかった。ある中隊では士官全て死傷したため、伍長数個小隊再編成して負傷者後送指揮行っている。海兵隊伝統をこの日実践できた海兵隊員たちは「それは倫理的なものではない、論理的なものすらない。しかし、ただ神に誓って、それが海兵隊のである。だから我々はそれを遂行するだろう」と胸張ってる。 日本軍6月15日夜半に軍の総力をもって総攻撃企画したが、通信線寸断されており部隊掌握ができなかった。その為、陸軍部隊夜襲参加したのは第1線配備されていた各守備隊残存部隊のみとなり小規模な夜襲となってしまった。しかも、アメリカ軍日本軍夜襲警戒して常時沖合艦艇照明弾打ち上げており、夜襲効果期待できなかった。日本軍夜襲は夜9:00から翌16日未明午前4:45まで断続的に行われガラパンから通じ海岸道路伝って第2海兵師団占領地突撃してきたが、オレアイ三叉路付近で第6海兵連隊第2、第3大隊待ち構えており、激戦の末に700人の遺体残して日本軍撃退された。 海軍でも、逆襲戦力として温存されていた唐島率い横須賀鎮守府第一特別陸戦隊空挺隊員編成されていた海軍陸戦隊唐島挺身隊に対して夜襲命じられた。唐島挺身隊全員柔道剣道有段者編成されており、空挺部隊として猛訓練を受けメナドマナド攻略作戦でも活躍しサイパンでは敵前上陸海岸での戦闘訓練積んできた海軍陸戦隊の最精鋭であった唐島挺身隊200人は軍刀抜刀しながらチャラン・カノア桟橋向けて斬りこみをかけた。チャラン・カノア日本の準国策会社南洋興発株式会社が、本社製糖工場を置くなど企業城下町として繁栄したサイパンではガラパンに次ぐ第2の都市であったが、上陸前の砲爆撃破壊され尽くされていた。第4海兵師団23海兵連隊上陸直後大した抵抗もなく占領していたが、唐島挺身隊勢い押された第23海兵連隊確保していた製糖工場付近から撃退されてしまい、唐島挺身隊奪還を許すこととなった。第23海兵連隊沖合海軍艦艇砲撃支援要請行い重巡洋艦ルイビル」など3隻が艦砲射撃によって、唐島挺身隊目的桟橋までにはたどり着け撃退された。指揮官唐島も足を負傷して野戦病院運ばれたが、翌日夜に自分だけが死ねなかったのは残念」として自決した戦車第9連隊五島正大佐アメリカ軍が狭い橋頭堡ひしめき合い戦車十分に揚陸できてない今の状況戦車攻撃すれば効果絶大判断し、第43師団参謀長鈴木6月16日早朝戦車第9連隊単独での挺身攻撃提案したが、鈴木よりは歩兵との連携攻撃指示され戦車第9連隊歩兵集結するまで待機させられる事となった。戦車第9連隊満州戦車独自で機動攻撃する訓練積んでおり、戦中急造された第43師団とでは練度的に連携攻撃は困難と評価していた上に、歩兵集結するのを待てばアメリカ軍戦車などの重火器揚陸反撃困難になる主張したが、五島の上申が取り上げられる事はなかった。戦車第9連隊生存者下田四郎6月15日夜から16日朝までにアメリカ軍臼砲撃ちこみ、戦車突撃できていればアメリカ軍上陸部隊撃破することも可能だった悔やんでいる。 大本営では必勝確信強かっただけに、アメリカ軍の上陸成功に対して失望大きく上陸当日陸軍省参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸許した第31軍参謀長井桁対す非難罵声あふれていたという。また井桁解任し、長勇少将参謀長交代させるべきだとの声も起こった軍司令官小畑は、6月16日パラオ移動しサイパンへの帰還タイミング見計らっていた。東條からは「貴官手段尽くして速やかにサイパン帰着し直接方面作戦指導する要す」との強い指示があっており、第31軍幕僚連れて6月21日ペリリュー6月24日グアム次第サイパンに近づいたが、アメリカ軍重囲下にあるサイパンの上陸はどうやっても困難であり、結局グアムよりの指揮を行う事となった。

※この「水際撃滅」の解説は、「サイパンの戦い」の解説の一部です。
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