水際撃滅
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大本営は、マリアナに来襲したアメリカ軍は空母9隻、戦艦9隻を基幹とするもので、上陸兵力は1、2個師団と判断し、「この堅固なる正面に猪突し来れるは敵の過失」として、守備隊の勇戦敢闘で撃退できると確信していた。これまで強気であった東條も予想外にサイパンへの侵攻が早まったのにも関わらず、昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、絶対の自信を披瀝するほどであったが、日本側の上陸部隊の戦力推計は過小判断であった。 アメリカ軍はタラワの戦いでLCVPが珊瑚礁の浅瀬を航行できず、多くの兵士が浅瀬を徒歩での上陸を余儀なくされて大損害を被った教訓から、上陸する将兵は浅瀬まではLCVPで進み、そこでアムトラック(水陸両用車)に乗り換えて上陸するといった、上陸戦術の改善を行っており、膨大な数のアムトラックが準備された。第2海兵師団と第4海兵師団の上陸部隊は、半数がアムトラック、半数がLCVPに乗り込み、可能な限り海岸近くまで接近した戦艦「テネシー」と「カリフォルニア」を主力とした巡洋艦と駆逐艦による艦砲射撃の支援の元にチャラン・カノアを中心に南北に広がるビーチを目指して殺到してきた。 6月11日から続いた上陸までの激しい空襲と艦砲射撃で、地上に暴露していた陣地施設等は殆ど破壊されてしまい、水際陣地の火砲の半数が撃破され、ビーチ正面を守っていた各部隊は連日の砲爆撃で大損害は被っていたが、師団長の斎藤は進んでいない陣地構築のなかで、兵力を一部縦深配置しており、掩蓋をかけたり地形を巧みに利用した陣地や、丘陵地区に配置されていた砲兵は比較的損害が少なく健在であった。また多数設置していた偽陣地に砲撃が分散したのも艦砲による被害を減少させる要因となった。なかでも、タポチョ山南東の南郷神社付近の山中に展開していた独立山砲兵第3連隊の損害は軽微で、野戦重砲大隊(黒木弘影少佐)の九六式十五糎榴弾砲12門は砲爆撃による損失が1門もなかった。独立山砲第3連隊は、南京攻略戦、徐州会戦、武漢攻略戦、南昌作戦、宜昌作戦、第一次長沙作戦といった日中戦争の主要会戦を戦ってきた精鋭で、関東軍として満州で猛訓練を積んできたのち、サイパンに送られてきたものであり、砲爆撃の打撃から立ち直った陣地から順次砲撃を開始し、第1派の上陸部隊は正確な砲撃によって、アムトラックが31輌が撃破されるなど大損害を被った。 それでもアメリカ軍は8:45に第1派が上陸に成功すると、第4派までに合計700輌ものアムトラックでビーチに海兵隊員を送り込み続け、上陸開始わずか20分で8,000人を上陸させた。上陸した海兵隊員からは「敵の対船砲火は、今のところ効果なるものとは見えず」や「部隊は170地区を堂々と前進中なり」などと順調な戦況を伝える無電が入っていたが、ビーチ正面を守っていた日本軍守備隊南地区独立歩兵第316大隊と中地区左地区歩兵第136連隊第2大隊は、大損害を被りながらも粘り強く抵抗を続けており、アメリカ軍が制圧できていた地域はビーチからわずか縦深90mにしかすぎずに、狭い橋頭保に多数の海兵隊員がひしめくこととなってしまった。一方日本軍は、激しい艦砲射撃や艦載機による攻撃で海岸線に設置されていた火砲は次々と撃破されていたが、山中に配置されていた独立山砲兵第3連隊の火砲や、海岸を見下ろす丘陵地域に巧みに配置されていた、中・小口径で機動式の火砲と迫撃砲部隊も多くは健在で、砲爆撃の打撃から立ち直って砲撃を開始し、第4派と第5派の上陸部隊が接近してきたとき日本軍の砲火が最も激烈となった。日本軍の火砲は、事前にあらかじめ珊瑚礁に着弾を集中するように射角を調整していたが、アメリカ軍のアムトラック隊が珊瑚礁に差し掛かると、日本軍の砲撃によって珊瑚礁の線全体に水柱と炎の幕が下りたように見え、沖合の艦艇の水兵からは、一連の多数の機雷がひとつの信号で同時に爆発したかのように見えたという。 第6海兵連隊第1大隊は海上だけで100人が死傷するなど、日本軍の砲撃によってアメリカ軍は大損害を被り、多数のアムトラックが撃破されたことから搭乗していた海兵隊員は泳いでの上陸を余儀なくされ、多くの兵器や装備が水にぬれて使用不能となった。上陸しても、狭い橋頭保に日本軍の砲弾が絶え間なく飛来し、多数の海兵隊員を吹き飛ばした。アメリカ軍は巧みに隠された迫撃砲を発見する手段がなく、上陸部隊からは平文で「敵迫撃砲を爆撃されたし」という悲痛な無電通信が入り続けた。海岸に張り付いた海兵隊員は絶え間なく着弾する日本軍の砲弾から身を守るため、砲弾でできた弾痕をさらに掘り進めて即席の蛸壺壕を作って身を潜めたりしていたが、死傷者は増大する一方であった。。前線よりは、「形勢は、相当困難なり」という苦戦を知らせる無電通信も寄せられて、同行していた従軍記者の間に「これは本当の危機らしいぞ」という緊張が走り、予想外の苦戦にホーランド・スミスは、日本軍の兵力が想定より50%以上は多かったことを認識した。また、健在であったサイパン北端の海軍海岸砲は、艦砲射撃をしている艦船に応射を行い、戦艦「テネシー」の5インチ砲を1門撃破し死傷者35名の損害を与えている。 アメリカ軍は138,891発8,500トンの艦砲射撃を行い、海岸陣地をより弱体化できたと考えており、日本軍の猛烈な反撃は全くの予想外だった。アメリカ軍による自らの艦砲射撃についての評価は、かなりの成果を挙げてアメリカ軍の勝因の最有力なものの一つとなったとの前向きな評価をしつつも、上陸当日、海岸線で日本軍の猛烈な反撃を被る事となった為、サイパン戦での艦砲射撃の効果は「不十分」であったとも分析し、 準備砲撃期間が短く、目標が多かった 空中観測の訓練が不十分 グアム戦を見越して弾薬を節約していた 日本軍火器の偽装と陣地変換が巧みであった との反省点を挙げている。 ニミッツも「上陸地点に向けられた不十分な砲火だけではあまりにも不徹底であり、海岸の背後や両翼陣地には、丘陵地帯にガッチリ据えつけられた多数の火砲や機銃が無傷で残っていた。」と回想している。 第43師団師団長斎藤は、空襲と艦砲射撃で師団司令部を破壊されていたので、6月13日以降は南郷神社付近の洞窟に戦闘指揮所を設けてそこから戦闘指揮を行っていた。また、独立混成第47旅団長の岡は、戦闘指揮所を前線により近いヒナシス丘陵付近に前進させ、自ら第一線の戦闘を指揮していた。斎藤は、水際撃滅の為に戦車第9連隊第5中隊(吉村中隊長)と、他の島に転用予定ながらアメリカ軍の上陸に遭遇してしまった独立歩兵第315大隊(前歩兵第40連隊第3大隊)などの逆襲部隊を、岡の戦闘指揮所のあるヒナシス丘陵周辺に集結させた。 11時までには上陸したアメリカ第2海兵師団は前線を400ヤード(365m)進めたが、日本軍の砲撃で大損害を被っており、特に第6海兵連隊はこれまでに35%の戦力を失っていた。斎藤は反撃の好機と判断し、正午ごろに独立歩兵315大隊を主軸とする1,000名の歩兵と吉村戦車中隊約15両に反撃を命じた。12時にオレアイ付近で日本軍の反撃を受けた第6海兵連隊は、戦車の支援がなかったので日本軍の戦車の攻撃にM3 37mm砲やバズーカで対抗したが、日本軍の猛攻に水際まで一旦押し切られそうになった。吉村戦車中隊の95式軽戦車は、アメリカ軍のアムトラックに戦車の砲台を取り付けたアムタンク(水陸両用戦車)と戦車戦になったがそれを撃破し、さらに第6海兵連隊の作戦将校たちが搭乗していたアムトラックも撃破して、作戦将校を死傷させた。 第6海兵連隊の苦境を救ったのが、海岸近くまで接近していた巡洋艦と駆逐艦の艦砲射撃で、艦砲射撃と態勢を立て直した第6海兵連隊の反撃によって、独立歩兵第315大隊は大損害を被って撃退され、吉村戦車中隊も2両を残し撃破された。この後も、アメリカ軍の艦砲射撃は猛威を振るって、日本軍守備隊に大打撃を与えており、ヒナシス丘陵で戦闘指揮をしていた独立混成第47旅団長の岡も艦砲射撃により戦死し、これまでアメリカ軍に大損害を与えてきた砲兵も艦砲射撃や空爆などによって、15日の日中には半数程度が沈黙していた。 それでも、残った日本軍防衛線は各所で頑強な抵抗を行いアメリカ軍の占領地域は容易には拡大できなかった。夜までにアメリカ軍が確保したのは、海岸線の南北1キロ縦深数百メートルと細長い地域に過ぎず、これはアメリカ軍の計画の半分にも満たなかった。特にアメリカ軍上陸地域の南端アギガン岬とほぼ中央のアフェトナ岬(日本側呼称:ススペ崎)の日本軍陣地はアメリカ軍の攻撃を何度も撃退し、陣地を確保していた。なかでもアフェトナ岬は第2海兵師団と第4海兵師団上陸点の中間にあたり、アフェトナ岬を攻略できなかったことにより上陸初日の夜を、両師団は分断された状態で迎えることとなってしまった。分断された両師団は12人から15人で編成された偵察班を互いに派遣して連絡を取り合おうとしたが、両班ともに全員が行方不明となり、1人も帰ることはなかった。アメリカ軍は日本軍が掘削していた深さ2mの対戦車壕を利用し、戦闘指揮所や野戦病院として活用した。日本軍の砲弾は夜でも絶え間なく飛来しており、海兵隊員は対戦車壕や自ら掘削した蛸壺壕のなかで不安を抱きながら夜を迎えた。 上陸初日のアメリカ軍の損害は、第2海兵師団だけで戦死者・行方不明者は553名負傷者は1,022名に上った。また第4海兵師団を含めれば死傷者は2,000名以上となり上陸したアメリカ軍の10%にも達している。これは、のちの硫黄島の戦いにおける上陸初日の死傷率8%を上回るものとなった。指揮官の死傷も相次ぎ、第2海兵師団の10人の大隊長のうち、この日だけで5人の大隊長が死傷したが、ある大隊では続けて3人の大隊長を失っている。しかし、海兵隊は指揮官を失えば、その代理がすぐに指揮を引き継ぐ訓練が徹底されており、大きな混乱は起きなかった。ある中隊では士官が全て死傷したため、伍長が数個小隊を再編成して負傷者後送の指揮を行っている。海兵隊の伝統をこの日実践できた海兵隊員たちは「それは倫理的なものではない、論理的なものですらない。しかし、ただ神に誓って、それが海兵隊なのである。だから我々はそれを遂行するだろう」と胸を張ってる。 日本軍は6月15日夜半に軍の総力をもっての総攻撃を企画したが、通信線が寸断されており部隊の掌握ができなかった。その為、陸軍部隊で夜襲に参加したのは第1線に配備されていた各守備隊の残存部隊のみとなり小規模な夜襲となってしまった。しかも、アメリカ軍は日本軍の夜襲を警戒して、常時沖合の艦艇が照明弾を打ち上げており、夜襲の効果は期待できなかった。日本軍の夜襲は夜9:00から翌16日未明の午前4:45まで断続的に行われ、ガラパンから通じる海岸道路を伝って第2海兵師団の占領地に突撃してきたが、オレアイ三叉路付近で第6海兵連隊第2、第3大隊が待ち構えており、激戦の末に700人の遺体を残して日本軍は撃退された。 海軍でも、逆襲戦力として温存されていた唐島率いる横須賀鎮守府第一特別陸戦隊の空挺隊員で編成されていた海軍陸戦隊の唐島挺身隊に対して夜襲が命じられた。唐島挺身隊は全員が柔道か剣道の有段者で編成されており、空挺部隊として猛訓練を受けメナド(マナド)攻略作戦でも活躍し、サイパンでは敵前上陸や海岸での戦闘の訓練を積んできた海軍陸戦隊の最精鋭であった。唐島挺身隊約200人は軍刀を抜刀しながら、チャラン・カノアの桟橋に向けて斬りこみをかけた。チャラン・カノアは日本の準国策会社南洋興発株式会社が、本社や製糖工場を置くなど企業城下町として繁栄したサイパンではガラパンに次ぐ第2の都市であったが、上陸前の砲爆撃で破壊され尽くされていた。第4海兵師団第23海兵連隊が上陸直後に大した抵抗もなく占領していたが、唐島挺身隊の勢いに押された第23海兵連隊は確保していた製糖工場付近から撃退されてしまい、唐島挺身隊に奪還を許すこととなった。第23海兵連隊は沖合の海軍艦艇に砲撃支援要請を行い、重巡洋艦「ルイビル」など3隻が艦砲射撃によって、唐島挺身隊は目的の桟橋までにはたどり着けず撃退された。指揮官の唐島も足を負傷して野戦病院に運ばれたが、翌日夜に「自分だけが死ねなかったのは残念」として自決した。 戦車第9連隊の五島正大佐はアメリカ軍が狭い橋頭堡にひしめき合い、戦車も十分に揚陸できてない今の状況で戦車で攻撃すれば効果は絶大と判断し、第43師団参謀長の鈴木に6月16日早朝に戦車第9連隊単独での挺身攻撃を提案したが、鈴木よりは歩兵との連携攻撃を指示され戦車第9連隊は歩兵が集結するまで待機させられる事となった。戦車第9連隊は満州で戦車独自で機動攻撃する猛訓練を積んでおり、戦中に急造された第43師団とでは練度的に連携攻撃は困難と評価していた上に、歩兵が集結するのを待てばアメリカ軍が戦車などの重火器を揚陸し反撃が困難になると主張したが、五島の上申が取り上げられる事はなかった。戦車第9連隊の生存者下田四郎は6月15日夜から16日朝までにアメリカ軍に臼砲を撃ちこみ、戦車突撃できていればアメリカ軍上陸部隊を撃破することも可能だったと悔やんでいる。 大本営では必勝の確信が強かっただけに、アメリカ軍の上陸成功に対しての失望は大きく、上陸当日の陸軍省、参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した第31軍参謀長井桁に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁を解任し、長勇少将と参謀長を交代させるべきだとの声も起こった。軍司令官の小畑は、6月16日にパラオに移動し、サイパンへの帰還のタイミングを見計らっていた。東條からは「貴官は手段を尽くして速やかにサイパンに帰着し直接該方面の作戦を指導するを要す」との強い指示があっており、第31軍の幕僚を連れて6月21日にペリリュー、6月24日にグアムと次第にサイパンに近づいたが、アメリカ軍の重囲下にあるサイパンへの上陸はどうやっても困難であり、結局グアムよりの指揮を行う事となった。
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