上陸まで
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1942年(昭和17年)1月4日から、南洋部隊は千歳海軍航空隊(基地航空隊の陸上攻撃機)や横浜海軍航空隊(飛行艇部隊)によるラバウル空襲を開始した。オーストラリア空軍のレルーはこの戦闘に勝ち目をがないと判断した後、ラテン語でメルボルンのオーストラリア空軍本営に対して"Nos Morituri Te Salutamus" ("これより散らんとする我らは諸君らに敬礼を捧ぐ")と電信を打った。 1月8日-9日、南雲機動部隊は日本本土を出撃した。1月14日0830、南雲機動部隊はトラック泊地に到着した。 1月14日1330、志摩少将(第十九戦隊司令官)指揮下のラバウル攻略部隊本隊(第19戦隊〈沖島、津軽、天洋丸〉、第30駆逐隊、特設巡洋艦〈金剛丸、日海丸〉、南海支隊輸送船船団〈横濱丸、くらあど丸、太福丸、ちえりぼん丸、日美丸、ちゃいな丸、水戸丸、べにす丸、門司丸〉)はグァム島を出撃した。ラバウルに新編予定の第八特別根拠地隊関係者(金澤正夫少将、司令部予定者)は旗艦沖島に便乗した。サイパン島の第五根拠地隊所属の水上機や、メレヨン島に進出した水上機母艦聖川丸の水上機が船団の直衛を行った。 1月15日1530、潜水部隊(第27潜水隊、第33潜水隊)はトラック泊地を出撃、セントジョージ海峡南方で邀撃配置についたが会敵できず、29日にトラック泊地へ戻った。 1月17日0930、南雲機動部隊はトラック泊地を出撃した。同日同時刻、攻略部隊本隊はトラック泊地より西進していた第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将)指揮下の別働隊(軽巡〈夕張〉、第29駆逐隊、第四部隊〈静海丸、黄海丸、高瑞丸〉、第二海城丸〈1日遅れで合同〉)と洋上で合流(メレヨン島東方海域)、以後は志摩少将指揮下で南下した。 1月18日、前日よりグリーニッチ島に進出していた日本軍水上偵察隊は、ラバウル湾内の偵察に成功した。その後も水上偵察機隊は輸送船団の対潜・対空哨戒に従事した。同日夕刻、攻略部隊支援部隊(第六戦隊)の重巡洋艦4隻はトラック泊地を出撃、攻略部隊本隊との合流地点へ向かった。1月19日、支援部隊(第六戦隊)は洋上でラバウル攻略部隊本隊に合流した。 1月20日午後2時、カビエン攻略部隊(指揮官丸山少将/第十八戦隊司令官)の第十八戦隊(天龍、龍田)、第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)、輸送船3隻(金龍丸、五州丸〈航空機運搬艦〉、吾妻山丸)はトラック泊地を出撃、南下を開始した。 1月20日、南雲機動部隊の空母4隻(赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴)から発進した航空隊計109機(零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機)がラバウルに第一空襲を敢行した。8機の九九式艦上爆撃機(急降下爆撃機)が攻撃を仕掛け、戦闘で3機のオーストラリア空軍の戦闘機が撃墜され、2機は不時着、残りの機も損傷を受けた。日本側記録では4機撃墜、1機不時着。オーストラリア人の飛行士や乗組員6人が戦死し、5人が負傷した。南雲機動部隊の損害は、零戦1、艦爆1、艦攻1の合計3機で、攻撃目標を完全に達成したため第二次空襲は中止された。オーストラリア軍基地は破壊され、オーストラリア軍歩兵部隊はラバウル自体から撤退することを余儀なくされた。一方、南雲機動部隊は一航戦(赤城、加賀)と五航戦(瑞鶴、翔鶴)に分れて行動する。一航戦は21日にカビエンを空襲、五航戦はニューギニアのラエとサラモアを空襲した。オーストラリア軍のカビエン守備隊は守備不能になり、逃走した。 オーストラリア陸軍部隊は日本軍が上陸するであろうと予測したであったブランチ湾の西岸に沿って配置に付き、残存していたオーストラリア空軍の2機の急降下爆撃機と1機のハドソン爆撃機はラエに向けて撤退することとなった。航空機が何人もの負傷者を乗せて離陸した後、オーストラリア軍は飛行場を爆破した。またカタリナがカビエン南西を航行中の第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)と輸送船団を発見して通報した。ポートモレスビーより飛行艇3機が爆撃にむかったが、1機は五航戦の零戦に撃墜され、搭乗員は青葉に救助・収容された。 1月22日、一航戦(赤城、加賀)は計46機でラバウルに空襲を敢行した。この日の損害は艦爆2機不時着であった。翌日の上陸戦闘においても、赤城の零戦9機と艦爆6機が上空警戒と支援をおこなった。
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上陸まで
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悪天候による遅延の後、最終的に1917年10月11日に攻撃が開始された。10月10日の夕刻、重装の部隊はPutziger Wiekを出発し、夜の間にWindauからの部隊と合流した。上陸軍の司令部は旗艦「モルトケ」に乗り込んでいた。午後の間、兵員輸送船は攻撃部隊とともに4縦隊をなし、速力9ノットで北に向かった。一方、掃海部隊は機雷原の中に航路を作り出す努力を続けた。夜間、波浪が増したことで掃海部隊の動きは妨げられ、予定時刻までには機雷原の掃海が終わらなかった。奇襲効果が失われることを恐れたシュミット提督は、満載状態の輸送船と価値ある戦闘艦を危険にさらすことを決断した。上陸船団は掃海の終わってない作戦海域を素早く通過した。機雷原を抜けたにもかかわらず、大きな損害は発生しなかった。ただ工兵を輸送していた小型蒸気船「コルシカ」が午前5時頃に機雷によって大きく損傷した。乗組員および搭乗していた兵員は水雷艇などに移乗し、船は浅瀬に乗り上げて修理を待つことになった。
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