上陸してきた米英軍に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「上陸してきた米英軍に敗北」の解説
チュニジア北西部を陣取る米英軍への反攻作戦にあたってロンメルは米英軍の補給拠点であるアルジェリアの要衝テベサ(fr)を陥落させてそこから地中海へ北上し、米英軍と後方のアルジェリア諸港を遮断して壊滅させることを提案した。一方アルニムはそのような野心的な作戦を実行できる戦力は無いとして反対し、チュニジア・ファイド峠西方の米軍を強襲して北進しチュニス前方まで進出することを提案した。両者の上官である南方総軍司令官ケッセルリンクは作戦を統一しようとせず、両者にそれぞれの作戦を実行させることとした。 1943年2月14日から第5装甲軍が「フリューリングスヴィント作戦(春風作戦)」、ついで2月17日からロンメルのドイツ=イタリア装甲軍が「モルゲンルフト作戦(朝風作戦)」をそれぞれ発動した。ロンメルの作戦は初戦はうまく運んだ。まずスベイトラを占領し、ついでテベサへの入り口であるカセリーヌ峠に進軍し、同地の米軍を潰走させた(カセリーヌ峠の戦い)。そこからドイツアフリカ軍団をテベサへ、第10装甲師団をターラへ北進させたが、テベサへ向かった部隊は航空支援を受けた米軍B戦闘団によって進撃を阻止され、ターラへ向かった第10装甲師団は一時的にターラを占領したものの英第6機甲師団と近衛旅団によってターラを追われてしまった。ロンメルは2月22日にはテベサ占領が不可能であることを悟らされた。 ロンメルはこの攻勢の失敗で完全にやる気をなくしてしまったようだ。2月22日にロンメルの指揮所を訪れたケッセルリンクとヴェストフェル(ロンメルのかつての作戦主任参謀。この時にはケッセルリンクの参謀長になっていた)は別人のようにやつれて覇気の無い顔をしたロンメルを見たという。彼は司令部に鳴る電話すらとらなくなり、さっさと前線を離れて後方のスベイトラに帰ってしまった。ケッセルリンクは2月23日に第5装甲軍とイタリア第1軍(ドイツ=イタリア装甲軍)を統括する「アフリカ軍集団(Heeresgruppe "Afrika")」を新設し、その司令官にロンメルを任じているが、この人事もロンメルにやる気を取り戻させることはできなかった。ロンメルは病気療養のため、ドイツへ帰りたがるようになった。
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